■ 日本の歴史 信長公記:犬山城の落城(実質的な尾張統一)
本日は「信長公記」から、信長が実質的に尾張を統一した「犬山城落城」の行(くだり)をご紹介致します。
永禄5年(1562年)6月下旬、信長公は織田信清殿(信長の従兄弟)の小口城(現愛知県小口町)を攻めた。戦いは御小姓衆が先懸けとなって惣構を押し破り、曲輪内に突入して数刻にわたる戦いとなった。
この戦いで御小姓衆の岩室長門守が敵にこめかみを突かれて討死した。岩室長門守は「桶狭間の戦い」の時に信長公出陣にいちはやく随従した人物であり、隠れなき才人であった。信長公の惜しみはとても大きかった。
※この時点では犬山城城はまだ落城せず信長は一時退却した。
永禄7年(1564年)8月には、丹羽長秀の調略により犬山の家老和田新介・中嶋豊後守の両名が、信長公へ内通してきた。信長勢は両名の手引によって犬山城へなだれ込み、城下を焼いて裸城にし、鹿垣(竹や枝つきの木で粗く編んだ垣)をもって城を十重二十重に取り囲んだ。
攻囲はそのまま丹羽長秀が担当し、まもなく城は落ちた。織田信清は信長軍を支えきれず、城を脱出して甲斐の国へ亡命した。これにより信長の尾張統一がほぼ完成した。
(出典:信長公記)
※写真は現存する国宝犬山城本丸です。
天守閣から眼下に流れる木曽川がとても綺麗な景観となっております。
是非一度足を運んでみて下さい。(愛知県犬山市)
【城地図】
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