【陣屋名】
千代ヶ岡陣屋(千代ヶ岡台場)
【千代ヶ岡陣屋(千代ヶ岡台場)の説明】
千代ヶ岡陣屋(千代ヶ岡台場)は函館市にある五稜郭の少し南に築かれた陣屋である。文化5年(1808年)、日露関係が緊迫した中、幕府が蝦夷地を直轄しここに陣屋を築いたのが始まりとされている。
その後弘前藩にも蝦夷地の守備の命が下り、同地に陣屋を設けたため「津軽陣屋」とも呼ばれている。幕末に入ると薩摩・長州・土佐を中心とした新政府軍が江戸を占領、幕府海軍副総裁だった「榎本武揚」が旧幕府軍海軍を率いて北上し蝦夷地を開拓することを決意した。
こうして旧幕府海軍旗艦「開陽丸」率いる軍艦や輸送船などは一路仙台を目指した。その中には機関の故障により動力を失い他艦に曳航される咸臨丸の姿もあった。
仙台で物資の補給や東北各地で戦闘を行っていた旧幕府軍を収容した榎本は海路蝦夷地を目指した。当時蝦夷地函館には新政府より派遣された「清水谷公考」が函館裁判所総督に任命されていたが、榎本脱走艦隊が上陸すると函館五稜郭を落とし、さらには松前藩も敗走させた。
榎本は来たる新政府軍との決戦に備え、弁天台場や五稜郭北部の四稜郭の建設、そして五稜郭の南方にある「千代ヶ岡陣屋」を整備し「千代ヶ岡台場」と称した。明治2年(1869年)、新政府軍の攻撃が始まると、千代ヶ岡台場には中島三郎助率いる砲隊のほか、伝習士官隊、彰義隊、陸軍隊、会津遊撃隊などが守備についた。
同年、5月15日に「弁天台場」が降伏した後、残るは五稜郭と千代ヶ岡台場だけとなり、五稜郭の榎本からは新政府軍に降るよう求められたが中島三郎助は断固これを拒否し、中島親子は1時間あまりの戦闘の末、戦死した。
なお、現在この辺り一帯には「中島町」としてその名前が残されており、「千代ヶ岡陣屋跡」は千代台公園として整備されている。
【千代ヶ岡陣屋(千代ヶ岡台場)・場所・アクセス】
〒040-0013 北海道函館市千代台町22
【千代ヶ岡陣屋(千代ヶ岡台場)地図】
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