長岡 謙吉 |
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出身 | 土佐藩 | ||
職名 |
長岡謙吉は、幕末期の土佐藩出身者で海援隊の隊員の一人である。別名は今井純正。
高知城下の浦戸町の医師・今井孝順(孝純、玄泉)の息子として生まれる。孝順は坂本龍馬の継母・伊予の縁者であった。幼少期は河田小龍の下で蘭学に励んだ。その後は江戸や大坂に遊学して、医学や文学を学んだ。
安政6年には家業の医師を継ぐため、長崎で二宮敬作に医学を学ぶ。しかしこのときに、藩からキリスト教に傾倒したと疑われて帰国を命じられ、処罰として長岡郡鹿児村への蟄居を命じられた。
その後に罪を許されたが、やがて脱藩して長崎に赴き、坂本龍馬の下で海援隊に参加した。龍馬は長岡の才能を高く評価し、海援隊の通信文書の作成など、事務処理のほとんどを長岡に一任していたという。慶応3年、夕顔丸に坂本龍馬や後藤象二郎らと同船し、大政奉還後の龍馬の構想をまとめた「船中八策」を起草した。
また、長崎におけるキリシタン問題を論考してまとめ上げた『閑愁録』を出版している。同年、龍馬が暗殺されると、海援隊の2代目隊長に選ばれた。明治維新後は三河県知事、大蔵省、工部省などに勤務したが、明治5年に東京にて若くして死去した。享年39。墓は増上寺の塔頭の一つ、安養院にある。
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