岩崎 弥太郎 |
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出身 | 土佐藩 | ||
職名 | 会計係 |
岩崎弥太郎は土佐藩が派遣した海援隊の会計係である。
幕末の激動の中を駈け抜け、武士から実業家に転身し三菱を創始した人物で、天保5年(1835年)土佐国、井ノ口村の地下浪人の家に生まれた。
安政元年(1854年)21歳のとき藩士・奥宮周二郎の従者となって江戸へ出、 安積艮斎の門人になった。
帰国後、土佐藩の執政・吉田東洋を知り後藤象二郎と親しく交わる。弥太郎は慶応2年(1866年)には藩の開成館貨殖局に勤務。 同じころ、勝海舟が、薩摩藩の西郷隆盛に龍馬たちの世話を頼み、慶応元(1865)年、長崎に「亀山社中」を設立し、龍馬たちに運営を任せました。
慶応3(1867)年4月、「亀山社中」は、龍馬が脱藩罪を許されたため土佐藩が引継ぎ、場所も隊員もそのままで「海援隊」となり龍馬が隊長となりました。その海援隊の会計を担当していたのが岩崎弥太郎です。
海援隊の船は伊呂波丸で、伊予大洲藩から海援隊が借り受け初航海に出ましたが、瀬戸内海、讃岐・箱の岬近くで、紀州藩船明光丸と衝突して沈没しました。この時、後藤象二郎、龍馬、そして弥太郎が交渉にあたり、結果、紀州藩が7万両の賠償金を支払う事で事件は解決しました。
龍馬の死後はそのまま亀山社中を引き継ぎ、社名を土佐商会とし、九十九商会という社名を経て今日の三菱礎となりました。
明治18年(1885)2月7日、弥太郎は病死する。
享年、51歳。
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