岡内 俊太郎 |
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出身 | 土佐藩 | ||
職名 |
岡内俊太郎は土佐藩出身の海援隊士。
天保13年土佐郡潮江村に岡内清胤の長男として俊太郎は生まれる。通称、俊太郎。
俊太郎は土佐藩の横目役として務めていたが、のち坂本龍馬に従い海援隊に入り、長岡謙吉と共に秘書として活躍します。
慶応3年に長崎で起きた英国船イカルス号水夫殺害事件の嫌疑が海援隊にかかると、佐々木高行と共に長崎へ派遣され、薩摩国へ滞在していた嫌疑のかかる菅野を長崎へ連れ戻しています。
その後海援隊士の無実が確定するまで長崎に駐在しています。9月に龍馬がオランダの会社ハットマン社から1000挺ものライフル銃を購入し、ライフルを土佐へ持ち込む事になると、9月18日に龍馬に同行して長崎を出航して土佐に帰国。種崎に上陸して御船手方中城助蔵の屋敷に入ります。
俊太郎は高知城下へ出て土佐藩参政渡辺弥久馬らと接触して龍馬がライフル銃を持って種崎に入った事を告げ、9月24日には城東松ヶ鼻の茶亭にて渡辺弥久馬や本山只一郎らと龍馬の交渉の周旋をおこなっているのです。またこの帰国で龍馬は実家に帰宅する事が出来たのですが、この際に同行して坂本家に泊まっています。
明治維新後の俊太郎は明治2年には司法官、明治6年にはヨーロッパを視察しており帰国後は司法大検事、長崎上等裁判所心得などを経て明治19年には元老院議院、明治23年には貴族院議院を歴任する活躍をみせています。俊太郎は大正4年、74年の生涯を閉じている。
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