中村 官兵衛 |
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出身 | 土佐藩 | ||
職名 |
中村官兵衛は土佐藩出身の新海援隊士。
龍馬が殺害された後、塩飽本島の小坂部落で「人名」と称する人達と、「問人」と呼ばれる人々の間に争闘が発生します。慶応4年(1868)1月には小坂浦全戸が焼かれ、村人18人が死亡し、400余人が人名側によって監禁される事態となりました。
従来から瀬戸内海の塩飽諸島には、豊臣時代から続いている特権を与えられた水主の「人名」と、権利を与えられず差別された小坂浦の「問人」と呼ばれる村人との間に、争闘がありました。
小阪騒動が発生し、この騒動を、高松藩朝敵事件討伐にきていた土佐藩士の知るところとなりました。そこで海援隊士は焼け野原となった小坂浦の近くに、「土佐小屋」と云う仮設住宅を作り、救助米を与えます。
その海援隊士らによる善政に対して「今日に至るまで御神徳を追慕して止まず、特に我が小坂に取ってはは命の親、部落の神様なりとて、一同打ち寄りて、永久土地の守護神として、報恩反始の精神より、山の神の社殿に合祀して土佐藩海援隊の方にてありければ・・・」(『八島神社誌』)に記されているように、隊士13名を生き神様として祀るため「十三(土佐)神社」(のちに重三神社となる)を建立します。
その恩人13名を小阪島民は末代まで祀り建立します。
この時の土佐藩士が、八木彦三郎、長岡謙吉、石田英吉、島村小右衛、橋詰啓太郎、武田保輔、中村官兵衛、島田源八郎等が主だった顔ぶれでした。
以後の中村官兵衛の消息は不明です。
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