吉井 源馬 |
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出身 | 土佐藩 | ||
職名 |
土佐国土佐郡南新町の土佐藩士吉井駒大(吾)の長男として生まれる。
慶応元年三条実美ら五卿が太宰府に蟄居のころ、随行していた土佐藩出身の土方久元らを追って脱藩した。清岡半四郎に従い五卿が復権して京都への帰還が決定するまで警衛に当たるが、その後、龍馬を慕い三条実美ら五卿の復権、帰京が決定した慶応三年に長崎へ出て、海援隊に参加した。
伊呂波丸事件の賠償問題交渉に加わり、龍馬の死後の慶応四年海援隊による長崎奉行所占拠に参加した。
その際に沢村惣之丞の最期に立ち会っている。
長崎奉行所占拠直後に天領だった天草富岡代官所襲撃事件が発生したが、その鎮撫に同僚の山本洪堂等と向かい、一発の銃砲も射つことなく鎮め、見事に其の重責を果たした。
維新後は新政府に出仕し長崎府員となり、長崎市民の動揺を収め、秩序の回復に尽力した。
佐渡縣判事、刑法官権判事を歴任し明治二年民部省の監督正に任じられる。
・同三年同省権大丞となり、大阪府権大参事を兼任した。
・同四年工部省工部小丞、同五年工部大丞に昇進し、明治七年同省会計局長権長兼任となる。
・明治九年十二月十三日工部省灯台寮の長官、灯台頭となり、翌十年一月十日、故あって退官した。
・明治十四年五月二十七日没。享年五十一歳。
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