中島 作太郎(中島信行) |
|||
出身 | 土佐藩 | ||
職名 |
中島信行は、土佐藩出身の政治家。男爵。
通称は作太郎。
最初の妻は陸奥宗光の妹中島初穂(1877年死去)で、後妻は女性解放運動家の岸田俊子。
土佐国高岡郡塚地村(現・高知県土佐市塚地)の郷士・中島猪三の長男。少年期に耕余塾へ通う。武市半平太の土佐勤王党に加盟、のちに脱藩して長州藩の遊撃隊に加わり、その後坂本龍馬の海援隊で活躍した。龍馬の死後は陸援隊に参加する。
会津戊辰戦争にも土佐藩士として従軍し、城下を巻き込んだ市街戦では会津藩家老西郷頼母邸で自害しきれなかった子女の介錯をしたとされる。その際は、意識朦朧とする子女に対して味方だと敢えて偽った。
維新後は新政府に出仕し、外国官権判事や兵庫県判事を経て、ヨーロッパ留学をした後は神奈川県令や元老院議官をつとめた。自由民権運動が高まりを見せると、板垣退助らとともに自由党結成に参加して副総理となる。
保安条例によって横浜へ追放された後、第1回衆議院議員総選挙で神奈川県第5区から立候補して当選。第1回帝国議会に於いて初代衆議院議長に選出されて就任。その後は明治26年(1893年)にイタリア駐在特命全権公使、同27年(1894年)には貴族院議員に勅選。
明治32年(1899年)、療養中の神奈川県大磯別邸にて死去。享年54。
コメント
この記事へのトラックバックはありません。
この記事へのコメントはありません。