山本 復輔(山本 洪堂) |
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出身 | 土佐藩 | ||
職名 |
山本復輔は土佐藩出身の志士で明治期の役人。
亀山社中・海援隊の一人。明治期は山本洪堂(号)と名乗る。
慶応元年(1865年)に坂本龍馬が結成した亀山社中に間もなく参加したものと推測される。慶応2年(1866年)12月20日の、龍馬から伊藤助太夫あての手紙に初めて名前が出てくる。
慶応3年(1867年)4月に改編成された海援隊にも引き続き参加、陸奥宗光や高松太郎らと大阪において商事を営み、隊内の医官に長岡謙吉となる。同年11月に龍馬が暗殺されると、すぐさま長府藩士・熊野則之へと報知、同志の佐柳高次と共に下関に行き、伊藤や三吉慎蔵に伝える。
また、いったん三吉慎蔵の屋敷にいた龍馬の妻・お龍を、同志の石田英吉や中島信行らと長崎に迎えるのに一役買う。その後、長崎に帰り、翌慶応4年(1868年)1月には隊で長崎奉行所を占拠する。また、天草富岡代官所の襲撃事件の鎮撫に同志の吉井源馬と向かい、見事に鎮圧する。その後、箱館戦争に新政府軍として参加する。
明治維新後は大阪に移り住み、医者になったとの説もある。
明治初期の官員録の明治6年(1873年)6月20日の項に「開拓使・八等出仕・山本洪堂」とあり、新政府に出仕、開拓使や判任官を歴任していたとも推測される。
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