佐柳高次(前田常三郎)【海援隊士 幕末亀山社中】

佐柳高次(前田常三郎)【海援隊士 幕末亀山社中】

佐柳高次(前田常三郎)
出身 讃岐国塩飽佐柳島
職名






佐柳高次は、讃岐国塩飽佐柳島の海援隊隊士。
本名は前田常三郎。

嘉永4年江戸に出府し、安政2年に長崎海軍伝習所の水夫に採用される。1860年(万延元年)勝海舟らとともに咸臨丸で渡欧を経験するし、その後、勝の紹介で坂本龍馬と知り合い、神戸海軍操練所、さらに亀山社中(海援隊)にも参加した。

慶応2年(1866年)薩摩藩船ワイル・ウエフ号に池内蔵太らと乗船し、長崎を出航、その途中で難破し海へ投げ出されてしまったが、池らが死亡する中で奇跡的に生還する。同年、水夫頭として乙丑丸に乗船し、四境戦争で長州藩を助けた。慶応3年(1867年)士官として大洲藩船いろは丸に乗船する。

長崎を出航後、紀州藩船明光丸と接近した時は当番士官であった。いろは丸と明光丸はそのまま衝突事故を起こしたため、高次はすぐさま明光丸に乗り移って船員との連絡を試みた。事故後は、責任をいろは丸に取らせようとする紀州藩の態度に怒り、腰越次郎とともに紀州藩士を斬ろうと息巻くも、龍馬に制止されている。

その後の紀州藩との交渉に証人として重要な位置を占めた。同年、龍馬が暗殺されると、海援隊を代表して竜馬の妻・お龍のいる馬関へ走るが、結局当人に伝えることは出来なかったという。

明治元年(1868年)長崎奉行所の役人らが出奔したため、菅野覚兵衛らと謀って奉行所を占拠した。明治2年(1869年)新政府軍の陽春丸に乗って箱館戦争で活躍し、戦後は佐柳島に帰島した。 帰郷後は「坂本龍馬神宮」と亡き海援隊の同志たちを毎朝晩参拝したという。墓所は香川県仲多度郡多度津町佐柳島の乗蓮寺。

佐柳高次(前田常三郎)【海援隊士 幕末亀山社中】

坂本 龍馬 陸奥宗光(陸奥陽之助)
長岡 謙吉 近藤 長次郎(上杉 宋次郎)
新宮 馬之助 岩崎 弥太郎
岡内 俊太郎 佐々木 高行
小曽根 英四郎 福島 某
瓜生震 長谷部 卓爾
高橋 勝右衛門 森田 晋三
由比 畦三郎 中村 官兵衛
間崎 専吉 波多 恭輔
波多 彦太郎 橋詰 啓太郎
長岡 謙次郎 得能 猪熊
掘謙 司 武田 保輔
島橋 兼吾 島田 源八郎
桂井 隼太 勝間 桂三郎
竹中 与三郎 丸岡 莞爾(吉村 三太)
島本 要(土岐 真金) 中江 兆民
三上 太郎 佐々木 栄
坂本 清次郎(三好 清明) 小谷 耕造
宮地 彦三郎 関 義臣
吉井 源馬 中島 作太郎(中島信行)
山本復輔(山本 洪堂) 野村 辰太郎
腰越 次郎(野村幸次郎) 橋本 久太夫
佐柳 高次 黒木 小太郎
安岡 金馬(平安佐輔) 石田 英吉(伊吹周吉)
池 内蔵太(細川左馬之助) 沢村 惣之丞(関雄之助)
白峰 駿馬(鵜殿豊之進) 菅野 覚兵衛(千屋 寅之助)
高松 太郎(龍馬の甥)











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