石田英吉(伊吹周吉) |
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出身 | 土佐 | ||
職名 |
石田英吉は、土佐藩士で明治の政治家。
変名を伊吹周吉という。
土佐藩の医師の家に生まれる。家業を継ぐため大坂の適塾で緒方洪庵に師事し、医術を学んだ。しかし、志士・吉村寅太郎に心酔し、天誅組に加わって大和挙兵に参陣した。この戦いで敗れた英吉はやむなく長州に落ち延び、再起を図る決意を固める。だが禁門の変で負傷、三条実美ら有力公卿が都を落ち延びた、いわゆる「七卿落ち」で三条とともに都を離れた。その後、再び長州に逃れた英吉は、そこで高杉晋作と合流し、奇兵隊創設に貢献するなどして過ごした。
以後は坂本龍馬とともに亀山社中や海援隊の結成に参加し、長岡謙吉にとともに重きをなした。下関海戦では坂本の命によりユニオン号の指揮を任せられ、めざましい戦果を挙げた。
龍馬の死後、海援隊では長岡に従い、後進の指導にあたるなど組織をまとめた。維新後は秋田県令・千葉県知事をはじめ、多くの県知事職を歴任した。農政面での政策では多大な功績を残した。海援隊時代の同志であった陸奥宗光が農商務大臣に就任した際、英吉を次官に迎えて国政を相談したとされている。
明治29年6月、維新の功により男爵を授けられる。貴族院男爵議員をつとめたのち、明治34年(1901年)、63歳で没した。
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