池内蔵太(細川左馬之助) |
|||
出身 | 土佐 | ||
職名 |
池内蔵太(いけくらた)は、幕末の土佐藩郷士。
別名に細川左馬之助。
土佐藩士の中でも身分の低い微禄の家柄の息子として生まれた。1861年、江戸に出て安井息軒に師事し、様々な藩の志士と交流した。武市半平太と共に土佐勤王党の結成に尽力する。1863年、山内容堂の命令を受けて大坂・江戸の視察を命じられた。
しかし容堂があくまで佐幕的な態度を貫いていたため、尊皇攘夷に好意を抱いていた内蔵太はこれを契機に土佐藩から脱藩して長州藩に逃げ込み、長州の尊皇攘夷運動に参加することにしたのである。そして長州軍の遊撃隊参謀となり、1863年5月10日のアメリカ船砲撃を指揮した。その後、天誅組の反乱に参加して天誅組が壊滅すると京都に潜伏し、1864年に長州藩が軍を率いて禁門の変を起こすと、長州軍の忠勇隊を指揮するなどして活躍している。
1865年、坂本龍馬が亀山社中を結成すると、池内蔵太はそれに入社して龍馬と共に海軍創設に尽力する。しかし1866年、長崎から薩摩藩へ小型帆船・ワイルウェフ号を回航する途中で台風のため難破し、死亡する。享年26。
あまりに若すぎる死であり、龍馬は自分の後継者として期待していた内蔵太の死去を聞いたときに、「わしより先に死ぬ奴があるか。わしより生きれば、わし亡き後の海援隊を継がせるつもりだったのに」と嘆き悲しんだ。
コメント
この記事へのトラックバックはありません。
この記事へのコメントはありません。