- お城・城跡, 戦国時代, 日本100名城, 関東・甲信
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【城名】
江戸城
【江戸城の説明】
江戸城の歴史は戦国時代よりもはるかに古く、平安時代から鎌倉時代にかけて江戸氏により築かれたと言われている。その後、江戸氏の没落とともに、戦国時代初期に扇谷上杉氏の家臣「太田道灌」によって城の改修が行われた。当時の江戸城は現在のような立派なものではなく、周りは沼地や草地に囲まれた平山城だったという。
また、海岸線は現在よりももっと内陸部にあったため、江戸城の城脇がすぐに品川沖(東京湾)だったようである。戦国時代初期に江戸城主だった太田道灌は、主君である「上杉定正」により殺害されてしまう。これにより一時は上杉家の城となるが、その後関東制覇を目指す北条氏綱・氏康親子からの攻撃を受けて落城。以後北条氏の城として関東制覇の拠点となる。
北条氏が関東を平定した頃、中央では実質的に織田信長の後継者となった「豊臣秀吉」が天下統一の総仕上げとして北条征伐(小田原征伐)を実施する。動員された兵力は全国の大名と約20万の兵と言われている。北条氏の兵力は農兵や正規兵を合わせても約8万人とされ、兵力の違いから北条方は籠城戦に決する。しかし、北条氏はついに秀吉の前に降伏し、その旧領はそのまま「徳川家康」へと与えられた。
関東への移封を命ぜられた家康は本拠地を「江戸」に定め、秀吉の没後に天下をその手にすると城の大改修を行った。この大改修には全国の大名が自前による資金や物資により普請が行われた。こうして江戸城は全国一の近代的城郭へと変貌を遂げ、徳川250年の全国支配の拠点として輝き続けた。
長い間政権を握ってきた徳川家も、幕末になるとペリー艦隊の来航や諸外国による日本進出により開港や開国を求められ窮地に陥ってしまう。また、徳川家自体の屋台骨もすでに揺らいでおり、ここに各地の雄藩が力を持ち始めてきた。そしてついに薩摩藩・長州藩・土佐藩(芸州藩:広島藩)による討幕軍が起こり、「鳥羽伏見の戦い」から「函館五稜郭の戦い」までの戊辰戦争を経て、日本は朝廷をトップにした近代国家として生まれ変わる。
※この時天皇家も京都から東京へ遷都をし、名実ともに東京が日本の中心都市となる。
一方江戸城の天守は大火によりすでに消失しており「富士見櫓」が天守代用として利用されていた。その他、現在残されている建造物は「伏見櫓」や「二重橋」「桜田門」「清水門」「田安門」などが残されている。江戸城は「国指定史跡」や「日本100名城21番」に選定されており、多くの人々が北ノ丸公園や皇居周辺を散策したりして賑わいを見せている。
江戸城(1/700)日本の名城プラモデル
【江戸城・場所・アクセス】
〒100-8111 東京都千代田区千代田1-1
【江戸城地図】
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