【城名】
広島城
【広島城の説明】
広島城は広島県広島市にある毛利輝元が築城した城である。海からの貿易や航路による重要性を考慮し、広島湾に注ぐ太田川中州に城下町ともに築城された。毛利元就が長年本拠にしていた典型的な山城「郡山城」からの移転であった。
この城には大天守・小天守も存在し、当時の毛利家の身代に相応しい格式の城であった。しかし、輝元は「関ヶ原の戦い」で石田三成から西軍の総大将に指名されそれを受諾する。合戦時は豊臣秀頼が篭る大阪城につめていた。戦は三成率いる西軍が一日にして惨敗し、家康は大阪城へ向かって進軍してきた。
一方、輝元は家康から城を退去するよう圧力をかけられ広島へと帰城していった。その後家康による論功行賞が行われ、毛利家は120万石から周防・長門の二国36万石へと除封されてしまう。家臣団の俸禄は1/4に減らされ本拠地も広島から萩へと移転させられた。
毛利家が退転したあとの広島には関ヶ原の戦いで戦功があった「福島正則」が入封する。正則は慶長19年(1614年)・慶長20年(1615年)に勃発した「大坂の陣」でも徳川方につき家名を存続させた。ここに豊臣秀吉が築き上げた豊臣政権は消滅することになる。
その後、家康は後継ぎの秀忠に家督を譲り秀忠は征夷大将軍に任命される。しかし、徳川家による豊臣恩顧大名への切り崩しは執拗であった。正則は幕府へ広島城の修繕の届け出を出していたが、どういうわけか受理されておらずそれを知らずに城の普請を行ってしまった。
これがきっかけで福島家は川中島4万5,000石へ除封の上、広島城からも退転が決まってしまう。正則は全てを諦め幕府側には抵抗しなかったそうである。その際、「家康公に貸し(恩を売る)があれども秀忠殿には貸しはない」と言ったと伝えられている。川中島への移封とはいうものの実際は改易に近いものがあった。
福島家が退転したあとの広島城には浅野家が入封し、そのまま明治時代を迎えた。現在の広島城天守は戦時中に消失したこともあり、鉄筋コンクリートによる復元天守である。なお、広島城は「日本100名城73番」に選定されている。
【広島城・場所・アクセス】
〒730-0011 広島県広島市中区基町21-1
【広島城地図】
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