高遠城:織田信忠軍により落城 桜の名所で仁科盛信の高遠城【お城特集 日本の歴史】

【城名】
高遠城

【城の説明】
高遠城は長野県伊那市高遠町にあった城である。桜の名所としても有名で、国の史跡に指定されている。戦国時代の高遠城は諏訪氏の一族「高遠頼継」が居城としていたが、諏訪氏本家の当主「諏訪頼重」とは反目していた。天文10年(1541年)頼継は甲斐の武田晴信(信玄)と共同で諏訪攻めを行っている。

諏訪氏は晴信により滅ぼされるが、その後諏訪氏の領有を巡り晴信と頼継は対立してしまう。天文14年(1545年)4月に晴信は高遠城と「藤沢頼親」の福与城攻めを行い、これらを滅ぼして伊那地方攻略の拠点とした。高遠城は信濃への進出拠点として天文16年(1547年)に、足軽大将の「山本勘助」や重臣の「秋山信友」により大規模な改築が行われたという(甲陽軍艦より)。

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続いて弘治元年(1555年)、晴信は小笠原氏や知久氏を破り、木曾氏をも制圧して信濃平定を達成する。弘治2年(1556年)には秋山信友が高遠城主に任命された。永禄5年(1562年)、晴信の庶子「武田勝頼(母は諏訪家の出身)」が諏訪家を継承し高遠城主となり、高遠城主だった秋山信友は飯田城代となる。

元亀元年(1570年)に武田家の嫡男であった義信が廃嫡される義信事件が起こると、勝頼は信玄(晴信改め信玄)の後継者となり、武田家の本拠「躑躅ヶ崎館」に呼び戻される。これにより高遠城主は信玄の実弟「武田信廉」となった。元亀4年(1573年)4月12日、信玄が西上作戦の途中で病死したため、勝頼は武田姓に復し家督を相続し武田家第20代当主となる。天正3年(1575年)5月21日、勝頼は長篠の戦いにおいて織田・徳川連合軍に大敗を喫してしまう。

この敗退を機に武田家領国の経営が傾き始め、天正9年(1581年) に領国維持のため韮崎への府中移転を決める。そして異母弟の「仁科盛信」を高遠城主とした。翌天正10年(1582年)、勝頼は織田信長に内通した木曾攻めを行うが失敗に終わる。同年2月には織田信長が本格的な武田攻めを開始し、織田信忠(信長の嫡男)に5万の大軍を与えて高遠城を攻めさせた。

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高遠城に籠もる兵は3千余りで、盛信は信忠の降伏勧告を退けて抗戦するが、高遠城は玉砕し盛信も城を枕に討死した。高遠城の落城により織田勢は伊那方面からも甲斐へ侵攻し武田家は滅亡する。信長は高遠城の城主に「毛利長秀」を任命するが、そのわずか3ヵ月後に「本能寺の変」が起こり信長親子は討死する。高遠城には突如武田家の旧臣の「木曾義昌」が攻め込みこれを占領した。

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以後、高遠城は徳川家康と木曾義昌の攻防の舞台となるが、結局、信長の後を継いで天下人となった「豊臣秀吉」の命により義昌は家康の与力になる。家康が関東へ移封になると義昌は下総国阿知戸(現在の千葉県旭市)に1万石を拝領しこの地で没する。江戸時代になると高遠城は高遠藩の藩庁となり、京極氏・保科氏・鳥居氏と城主が交代した。

元禄4年(1691年)には「内藤清枚」が3万3千石で高遠城に入封し、以後、内藤氏8代の居城として明治維新を迎える。平成18年(2006年)4月6日、高遠城は日本100名城30番に選定された。






【高遠城・場所・アクセス】
〒396-0211 長野県伊那市高遠町東高遠2295

【高遠城地図】



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