【城名】
岐阜城(旧名:稲葉山城)
【城の説明】
岐阜城は岐阜県岐阜市の金華山にあった山城である。現在の金華山は旧名では美濃国井之口稲葉山と呼称されていた。織田信長が、斎藤龍興(斎藤道三の孫)から奪取した稲葉山城の縄張りを改修して、新たに造営したものが岐阜城である。
建仁元年(1201年)二階堂行政が稲葉山に砦を築いたのが始まりとされる。続いて行政の娘婿「佐藤朝光」が城主になり「伊賀光宗」光宗の弟「稲葉光資」が城主となり支配したという。その後一時は廃城となるが、1500年代中頃、美濃の守護代「斎藤利永」がこの城を修復して居城とする。
大永5年(1525年)になると斎藤氏家臣の「長井長弘」と「長井新左衛門尉」が謀反を起こして稲葉山城を攻撃し長井氏の支配下となる。新左衛門尉が没すると、その子「長井新九郎規秀(斎藤道三)」が後を継ぎ、城主となる。
※これには諸説あり
天文8年(1539年)斎藤道三は稲葉山山頂に本格的な山城を築き始め、この数年後には美濃国守護の土岐頼芸を追放してしまう。天文23年(1554年)には稲葉山城と当主の座を嫡子の「斎藤義龍」に譲り道三と号する。しかし、道三は嫡子の義龍に「長良川の戦い」にて敗れ討ち死にする。
※一般的には義龍の実父が「土岐頼芸」であったことから道三を討ち取ったとされている。
その後義龍の急死により、斎藤龍興が13歳で家督を継ぎ城主となる。永禄7年(1564年)2月、斎藤氏の家臣であった「竹中重治(竹中半兵衛)」と義父の「安藤守就」が龍興に反発して挙兵し稲葉山城を攻め取る。龍興らは城を捨て逃げ出し、半兵衛らが約半年間稲葉山城を占拠する。これは龍興に国主としての反省を促すもので野心のなかった半兵衛は程なくして城を龍興に返還している。
永禄10年(1567年)9月、かねてから美濃攻略を狙っていた織田信長が「西美濃三人衆(稲葉一鉄・安藤守就・氏家卜全)」の内応により稲葉山城を奪取することに成功する。
一方、龍興は伊勢長島へ逃亡し今後は局地的に信長へ抵抗をしていくことになる。なお龍興はのちに信長が越前朝倉攻めを行った際に家臣と共に討ち死にしている。信長は、稲葉山城を落とすと小牧山城から本拠地を稲葉山に移転し、古代中国で周王朝の文王が岐山によって天下を平定した事に因んで城と町の名を「岐阜」と改めた。
この頃から信長は「天下布武」の朱印(印鑑)を用いるようになり、本格的に天下統一を目指すようになったのである。
※岐阜城は日本100名城39番に指定されている。
【岐阜城(稲葉山城)・場所・アクセス】
〒500-0000 岐阜県岐阜市金華山天守閣18
【岐阜城(稲葉山城)地図】
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