【城名】
日野城
【城の説明】
日野城(別名:中野城)は、滋賀県蒲生郡日野町にあった日本の城である。城跡は国の史跡に指定されている。元々蒲生氏の居城は日野城からすぐ近くにある「音羽城」であったが一般的に広く知られているのは日野城のほうである。
日野城は「蒲生定秀(蒲生氏郷の祖父)」が天文2年(1533年)頃から日野の地に本格的な築城を開始した。蒲生氏は南近江の守護六角氏に仕えていたが、永禄11年(1568年)織田信長の上洛軍の攻撃を受けた主君六角家の「観音寺城」は六角父子の逃走によって一日で落城してしまった。
この時、定秀・賢秀父子は「日野城」に立て籠もり織田勢の来襲に備えていた。信長は日野城を力攻めすることなく、蒲生家と姻戚にある「神戸具盛」を説得の使者として派遣した。定秀、賢秀は説得に応じ、賢秀の嫡男鶴千代丸(蒲生氏郷)を人質に出して信長に臣従することとなった。
※日野町の蒲生氏郷像
信長は鶴千代丸が大層気に入ったようで自ら烏帽子親となって元服させ、次女冬姫を娶らせている。一方、氏郷は信長のもとで数々の武功を挙げて武将としての経験を積んでいった。
天正10年(1582年)本能寺の変が起こった時には、賢秀とその子「蒲生氏郷」は織田信長の妻妾一族をこの城に迎え入れて明智勢の襲来に備えていた。しかし、羽柴秀吉が主君信長の弔い合戦と称して「山崎の戦い」で明智光秀の軍を破ると蒲生家は秀吉に臣従する。
天正12年(1584年)には伊勢「松ヶ島」12万石に封ぜられ、蒲生氏は日野城を去ることとなった。その後日野城には田中吉政、長束正家と城代が入れ替わり、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦い以降は廃城となった。
元和6年(1620年)市橋長政が日野城跡の一部に陣屋を構えて「仁正寺藩」陣屋として明治維新まで続いた。
【日野城・場所・アクセス】
滋賀県蒲生郡日野町西大路
【日野城地図】
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