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【城名】
松前城(別名:福山城)
【城の説明】
松前城は、北海道松前郡松前町にあった平山城である。
別名を「福山城」とも呼ばれている。
元々は南部家の家臣であった蠣崎氏が青森県むつ市川内町蛎崎に所在し、蠣崎城を居城としたとされている。その後「蠣崎信純」が南部家中で騒乱を起こし「南部政経」は信純を追討し、信純は辛くも松前へと亡命した。
蠣崎信純の祖先は若狭武田氏(源氏)とも言われており、信純より以前の蠣崎氏は武田姓を名乗っていた。松前へ亡命した蠣崎信純はこの地で徐々に地盤を固めていき、戦国時代には蝦夷地南部をおさめる戦国大名へと育っていた。
また、別の説によれば若狭武田氏の武田信広が下北半島の蠣崎へ移住し、その後蝦夷の松前へ渡り、当時アイヌとの間で抗争中であった「蠣崎季繁」の客将として活躍し、そのまま蠣崎家の婿養子になったという説もある。
どの説が正しいのかは不明だが、武田信広(蠣崎信広)の時代に拠点を勝山館に移し、永正11年(1514年)には信広の子「光広」が松前の徳山館に本拠を移転し着実に実力を高めていった。
戦国時代後期に入ると蠣崎季広の子・蠣崎慶広は上洛して、天下を平定した豊臣秀吉に拝謁することで本領を安堵された。これによって蠣崎氏は当時東北北部や蝦夷地南部に影響力を持っていた秋田氏(旧安東氏)から名実ともに独立する事になった。秀吉の死後は徳川家康に接近して慶長4年(1599年)、姓名を「松前慶広」に改める。
慶長8年(1603年)には徳川家康は征夷大将軍の宣下を受け、こうして征夷大将軍のお墨付きを得て松前と改めた蠣崎氏は、江戸時代を生き抜くことに成功した。幕末には、藩主の松前崇広が外様大名ながら幕府の老中に取り立てられている。
一方、松前城は日本における最後期の日本式城郭である。ロシア艦隊などが来航すると幕府は、1849年(嘉永2年)に北方警備を目的に、松前崇広に福山館改築(松前築城)を命じた。築城の際に地形的にも守りやすい函館山に城を移すという案もあったが財政面や函館商人達の反対もあり実現しなかった。
福山館は長沼流兵学者「市川一学」の縄張りにより旧福山館の拡張・改築を行い、この時に初めて3重の天守を建造した。安政元年(1854年)に竣工し、この頃から松前城と呼ばれるようになったと伝わる。
海側からの艦砲射撃に備えて砲台を備え、かつ城壁の中に鉄板を仕込んでおり、城の本丸方の虎口から本丸までの通路は側面から鉄砲などで射撃しやすい構造とした。ただし城の中心である福山の台地から海岸まではあまり距離がなかったので、大規模な城郭とすることはできなかった。
こうして築城した松前城だが、明治元年(1868年)秋、蝦夷地に独立政権樹立を目指す旧幕府軍の「榎本武揚」を首領とする軍勢が、官軍の拠点である五稜郭を制圧した。その後、11月5日には元新選組の土方歳三が700名ほどを率いて松前城を攻撃した。松前藩兵は懸命に防戦したものの、わずか数時間で落城した。
しかし、翌1869年に榎本らの政権は降伏し、再び松前城は松前氏の居城となり、明治4年(1871年)の廃藩置県の実施により城は明治政府の領有となった。戊辰戦争中、天守や本丸御門などは現存したが、天守は第二次世界大戦後に失火により焼失した。しかし、築城時から現存する本丸御門が国の重要文化財に指定されている。現在は日本100名城(3番)に選定され「松前公園」として整備されている。
【松前城(福山城)・場所・アクセス】
〒049-1511 北海道松前郡松前町松城
【松前城(福山城)地図】
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