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【城名】
関宿城
【城の説明】
関宿城は古くから関東に君臨していた名城である。その場所は江戸川と利根川との境(分流地点)にあり、この両川が天然の水掘りの役目を果たしていた。また、水運に恵まれたこの地は水上交通や交易で栄えた重要拠点でもあった。城主は代々関東の名族「梁田氏」が治め、古河公方家(足利家)とは姻戚関係にあり、その家老職に就いていた。
戦国時代に入ると関東は上杉・武田・北条氏の争いの場となり、度々戦火に見舞われた。関宿城もその例外ではなく、関東統一を掲げる北条氏から幾度となく攻撃を受けることになる。第一次・第二次関宿合戦では辛くも北条氏を撃退したが、第三次合戦では「上杉謙信」や「佐竹義重」らの支援を受けることが出来ずついに梁田氏は城を退去し、以後北条氏の関東における軍事拠点となった。
その頃、中央では「豊臣秀吉」が天下統一まであと一歩というところにまで来ており、いよいよ最後の総仕上げとして関東全域を支配する「北条征伐」を目論んでいた。そして天正18年(1590年)ついに秀吉は各大名に北条征伐を命じ、自らも関東へと乗り込んできた。圧倒的な軍事力と物量を誇る豊臣氏に対して、北条氏は手も足も出ずいたずらに評定ばかりと繰り返していた。これが現在でも比喩などに使われる有名な「小田原評定」という言葉となる。
関宿城は秀吉による北条攻めのために落城し、北条征伐後に関東一帯の領主となった「徳川家康」の支配する地となった。家康はこの関東の要地に異父弟の「松平康元」を配置し治めさせた。その後は、小笠原氏・北条氏・牧野氏・板倉氏・久世氏・牧野氏と城主がめまぐるしく変わる。
江戸時代末期には再び「久世氏」が関宿城主となり明治維新を迎えている。城は利根川の氾濫などにより一時大破しており、その後河川の改修工事などにより破却された。現在の関宿城跡地には「本丸跡(石碑)」と「模擬櫓(千葉県立関宿城博物館)」が建立されている。
【関宿城・場所・アクセス】
〒270-0201 千葉県野田市関宿三軒家143-4
【関宿城地図】
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