【城名】
二俣城
【二俣城の説明】
二俣城は現在の静岡県浜松市天竜区二俣町二俣にあった山城である。
この城は二俣川と天竜川に挟まれた天嶮の城で武田信玄と徳川家康で激しく争った城として知られてる。
戦国時代に今川義元が駿河・遠江・三河にまで勢力を拡張すると二俣城も今川氏の城となり「松井宗信」が城主に任命された。しかし、永禄3年(1560年)の「桶狭間の戦い」で当主義元とともに宗信は討死してしまう。
二俣城主には嫡子「松井宗恒」が跡を継ぎ「今川氏真」に重用され3千貫を与えられた。永禄12年(1569年)、今川氏真は甲斐の武田信玄と三河の徳川家康の挟撃にあって滅亡した。この際、宗恒は信玄へ従属した。
その後、徳川家康は再三「二俣城」を攻撃し続け、ついに宗恒は降伏し、二俣城には「鵜殿氏長」が城代として置かれた。ほどなく、武田氏の脅威が高まると譜代家臣である「中根正照」に城代を交代させた。
元亀3年(1572年)、武田信玄は大軍を率いて信濃から遠江へと侵攻し西上する構えをみせ、武田勝頼を大将とする一軍が二俣城を猛撃し、中根正照と城兵は一丸となり必死に防戦するも、家康からの援軍を得られることなくついに浜松城へと退去した。
信玄の手に落ちた二俣城には「依田信蕃」が城主を務め辺り一帯を支配した。流れが変わったのは信玄の死後、天正3年(1575年)、長篠の戦いで織田・徳川連合軍が武田勝頼に圧勝するとすぐさま家康は反撃を開始。
二俣城を果敢に攻撃しついに依田信蕃は駿河田中城へと退いた。家康は城の重要性を考慮し、もっとも信頼の厚い「大久保忠世」を城主に任命し、城の修復や拡張を命じた。「本能寺の変」で織田信長が討たれると家康は織田領だった信濃・甲斐をどさくさに紛れて抑えてしまい、このため「大久保忠世」は信濃小諸城へと派遣された。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の北条征伐が終わると家康は関東へ転出となり、代わって「堀尾吉晴」が浜松城に入り、二俣城はその支城となった。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦い後に堀尾氏が出雲へ転封になると二俣城は廃城となった。
現在、城の遺構としては天守台跡と復元天守、石垣、土塁などが残っている。
【二俣城・場所・アクセス】
〒431-3314 静岡県浜松市天竜区二俣町二俣
【二俣城地図】
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