八代城:戦国大名相良義滋の居城の一つでその後島津氏に降った八代城【お城特集 日本の歴史】

八代城/アクセス・場所・地図 戦国大名相良義滋の居城の一つでその後島津氏に降った八代城【お城特集 日本の歴史】

【城名】
八代城

【八代城の説明】
八代城は熊本県八代市にあった平城である。
江戸時代初期に球磨川河口の松江に幕府の許可を得て建築されたことから松江城とも言う。

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戦国時代に人吉城の「相良義滋」がこの地を治めていたが、島津氏の北上に伴いこれに降伏した。天正14年(1586年)、豊臣秀吉が九州征伐の軍を起こすと島津方として交戦したため相良氏は没落しする。

秀吉は肥後北部を「加藤清正」に、南部を「小西行長」に与え、小西行長は家臣「小西行重」に命じて球磨川の三角州に総石垣造りの麦島城を築城させた。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが勃発すると西軍の小西行長は徳川家康の命により斬首となり、肥後一国は加藤清正の領地となった。

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清正は重臣の「加藤正方」を城代として麦島城に入れたが、元和5年(1619年)の大地震のために倒壊し城は廃城となってしまう。このため、加藤家二代藩主「加藤忠広」は、元和6年(1620年)に江戸幕府の許可を得て球磨川河口の松江に新たな城を築いた。これが現在の「八代城」の前身である。

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その後、加藤家は徳川幕府より改易されてしまい、豊前小倉から「細川忠興」が熊本藩へ転封となり、麦島城へは重臣の「松井興長」が3万石で城代に任命される。この時、麦島城から八代城へと変名された。

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以降、松井氏が城の改修を行い幕末・明治に至るまでこの地を治めた。現在の八代城跡には本丸跡に天守台、石垣、堀の他、北の丸跡、城壕、城壁、本丸大書院、庭園などの遺構が残されている。

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一国一城令の中、肥後の八代城が特例を得られた理由として、外様大名である薩摩藩や人吉藩への抑えとして、また、島原の乱や小西行長が統治していた際に普及したキリシタンへの抑えなどが考えられている。






【八代城・場所・アクセス】
〒866-0862 熊本県八代市松江城町7-34

【八代城地図】



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