【城名】
太田城(紀州)
【太田城(紀州)の説明】
紀州太田城は、和歌山県和歌山市太田に存在した平城である。
太田城の歴史は古く、延徳年間に「紀俊連」が神社領保護を目的として築城したと伝わっている。
戦国時代に入ると太田氏の居城となり、天正4年(1576年)に「太田左近」が城を本格的に改修した。天正5年(1577年)に「織田信長」が紀州征伐の軍を起こすと左近は信長に味方して、雑賀孫一(鈴木孫一)の雑賀城攻めに加わった。しかし、この攻撃は失敗に終わり織田軍は甚大な被害を被り撤退する。
その後、雑賀党の雑賀孫一が太田城へ攻め寄せるも落とすことが出来ず、和睦したと伝わる。天正13年(1585年)には、本能寺の変で斃れた「織田信長」の天下統一を踏襲した「羽柴秀吉」が紀州攻めの大軍を起こし、太田衆、雑賀衆、根来衆の連合軍を次々と破り根来寺を焼き尽くした。
次の目標として「太田城」へ攻め寄せるが城は簡単には落ちず、秀吉は水攻めを行い籠城すること1ヶ月、ついに太田左近らは降伏を申し出た。これにより左近ら主な将53名が自刃し女房衆23名が磔になったという記録が残る。なお、雑賀孫一はこの時、秀吉側についていたようである。
この秀吉の紀州攻めにより太田城は廃城となった。現在の城跡は開発が進みその遺構がほとんど残されていないが秀吉の水攻めの際の堤防跡や本丸跡がわずかに残るのみである。来迎寺は太田城の本丸跡と伝えられる場所である。
【太田城(紀州)・場所・アクセス】
〒640-8323 和歌山県和歌山市太田2-3-3(来迎寺・玄通寺)
【太田城(紀州)地図】
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