【城名】
松坂城
【松坂城の説明】
松坂城は現在の三重県松阪市殿町にあった梯郭式平山城である。
天正12年(1584年)近江日野城6万石を領していた「蒲生氏郷」が豊臣秀吉から伊勢松ヶ島城12万3千石を与えられ入城した。
これは織田信長が家臣「明智光秀」に討たれ、信長の一族を自身の日野城へかくまい、その後の織田家継承争いで一貫して秀吉に味方した褒賞である。
松ヶ島城は、天正8年(1580年)伊勢を統治していた「織田信雄」の居城「田丸城」が焼失したため、信雄が新たに城を築き「松ヶ島城」と命名した城であった。しかし、松ヶ島城は城の拡張が難しく城下町の発展を考慮した氏郷は新たに「松坂城」を築城した。
氏郷は徳川家康と豊臣秀吉の「小牧・長久手の戦い」でも秀吉に味方し、天正18年(1590年)の小田原征伐でも軍功を挙げ北条氏が滅びると会津60万石を拝領し会津黒川城を若松城へと改めた。一方、松坂城には「服部一忠」が入城した。
文禄4年(1595年)、一忠は豊臣秀次事件に連座したとして豊臣秀吉より叱責され自害し、変わって「古田重勝」が3万4千石で入城した。 慶長5年(1600年)、「関ヶ原の戦い」の軍功により重勝は徳川家康より2万石の加増を受けるもその後すぐに亡くなった。(重勝の死には諸説ある)
元和5年(1619年)、古田氏は石見国浜田城へ移封となり、城主不在の松坂城は紀州藩領に組み込まれて代々城代が置かれた。城はそのまま破却されず残されていたが、正保元年(1644年)に天守が台風により崩壊し、以降天守台だけが残った。
江戸時代中期には紀州藩陣屋が二ノ丸に建てられたりもしたが、そのまま紀州藩領として幕末・明治維新を迎えている。現在の城跡は本丸跡、天守台跡、石垣などの遺構が残されている。
【松坂城・場所・アクセス】
〒515-0073 三重県松阪市殿町
【松坂城地図】
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