【城名】
鳴海城
【鳴海城の説明】
鳴海城は愛知県名古屋市緑区にあった平山城である。
室町時代の応永年間に「足利義満」の家臣「安原宗範」によって築かれたとされる。
戦国時代に入ると「織田信秀」の支配下にあり、「山口教継」が隣国「今川義元」に備えるため城主を務めていた。しかし、ほどなく信秀が急死すると織田信長から離反し今川義元へと寝返った。この時、鳴海城の他・沓掛城・大高城も今川氏に吸収された。
天文22年(1553年)、信長は報復として鳴海城を攻めたが落とすことが出来なかった。その後、山口教継・教吉親子は信長の調略により義元から成敗され、山口親子亡き後は今川家譜代家臣の「岡部元信」が城主に任命された。
信長は鳴海城の抑えとして丹下砦、善照寺砦、中嶋砦を築いてこれに備えた。永禄3年(1560年)、義元が大軍を擁して尾張へ侵入し、これを迎え撃った信長との間で「桶狭間の戦い」が勃発し義元はあえなく討ち取られた。その後、鳴海城主の元信は主君の首と引き換えに城を退去した。
元信が去ると再び織田家の城となり、佐久間信盛・信栄父子が城主をつとめたが、天正時代末期に廃城になったと伝わる。現在、城跡の遺構はあまり残っていないが「鳴海城跡公園」として整備され、空堀や土塁状の地形が存在する。
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沓掛城:今川義元の大軍がこの城から出撃し桶狭間の戦いで敗戦 沓掛城
【鳴海城・場所・アクセス】
〒458-0801 愛知県名古屋市緑区鳴海町作町87(鳴海城跡公園)
【鳴海城地図】
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