【城名】
高鍋城
【高鍋城の説明】
高鍋城は宮崎県児湯郡高鍋町にあった平山城である。
別名を財部城と呼ばれ、平安時代末期に日向の豪族となった土持氏によって築かれたと伝わっている。
土持氏は室町時代までこの地を治めていたが、戦国時代に入ると伊東氏に攻撃されてこれに属した。長禄元年(1457年)、都於郡城主の「伊東祐堯」が大軍をもって高鍋城を攻撃し、土持景綱は敗退し城は落城したのである。この時、景綱が支配する多くの城や領地がそのまま祐堯のものとなった。
元亀3年(1572年)、薩摩の島津氏が次第に勢力を拡大しつつ日向国にまで迫ってきた。これに抗するため「伊東義祐」は大戦を展開するが「木崎原の戦い」で大敗北を喫してしまう。以降、徐々に島津氏の勢いに押され、天正5年(1577年)ついに大友宗麟のもとへと落ちていく。(伊東義祐の豊後落ち)
伊東氏の勢力を排除した島津氏では高鍋城に「川上忠智」を入れた。天正15年(1587年)、豊臣秀吉による九州征伐にて島津氏が降伏すると九州仕置きにて、筑前秋月城主であった「秋月種実」が高鍋城に移封される。
慶長9年(1604年)、次期当主「秋月種長」が高鍋城を本格的に整備しそのまま秋月氏の支配のまま幕末を迎えている。現在、城跡は舞鶴公園として整備されており城の遺構はあまり残されていないが石垣、土塁、堀などを見ることが出来る。
【高鍋城・場所・アクセス】
〒884-0003 宮崎県児湯郡高鍋町大字南高鍋(舞鶴公園)
【高鍋城地図】
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