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【城名】
八王子城
【城の説明】
八王子城は、武蔵国(東京都八王子市元八王子町)にあった城である。北条氏の本城である小田原城の支城であり、関東の西に位置する軍事上の拠点であった。八王子城は標高445mの深沢山(現在の城山)に築城されており、典型的な中世の山城である。
城山川沿いの山腹に御主殿と呼ぶ館を構え、その東側に曲輪で防衛している居館地区、城山川に沿った山麓に城下町を形成した根小屋地区などで構成されていた。城全体が余りに広大であったため、落城時には未完成であったと言う説もある。
城下町には、武家屋敷のある中宿、刀剣鍛冶職人の居住区である鍛冶屋村に加え、滝山城下から移転した商業区域の八日市・横山・八幡三宿があった。また出城には、搦手の防衛線を形成する浄福寺城、小田野城の他、初沢城などがあった。
元亀2年(1571年)頃より北条氏康の三男・氏照が築城し、天正15年(1587年)頃に本拠とした。氏照は当初、大石氏の滝山城を居城としていたが、小田原攻撃に向かう甲斐の武田信玄に攻められ、その際、滝山城の防衛の限界を感じ、織田信長の築城した安土城を参考に石垣で固めた八王子城構築を行い本拠を滝山城から移転した。
天正18年(1590年)八王子城は天下統一を進める豊臣秀吉の小田原征伐により攻められた。攻撃軍勢に加わったのは上杉景勝をはじめ、前田利家・真田昌幸らの1万5千の精鋭部隊であった。当時、城主の氏照以下家臣は小田原本城に駆けつけており、八王子城内には、城代の横地監物吉信、家臣の狩野主善一庵、中山勘解由家範、近藤出羽守綱秀らわずかの将兵の他、領内から動員した農民・婦女子を主とする領民を加えた約3000人が立て籠ったに過ぎなかった。
豊臣側は前夜のうちに霧の中を主力が東正面の大手口と北側の絡め手から侵攻し、力攻めにより早朝には要害地区まで守備隊を追いやった。その後は激戦となり1000人以上の死傷者を出し、一時攻撃の足が止まった。その後、絡め手側別働隊の奇襲が成功し、その日のうちに城を落とした。
氏照正室・比佐を初めとする城内の婦女子は自刃、あるいは御主殿の滝に身を投げ、滝は3日3晩、血に染まったと言い伝えられている。城代の横地監物は落城前に檜原村に脱出したが、小河内村付近にて切腹している。八王子城攻防戦を含む、この小田原征伐において北条氏は敗北し、城主の北条氏照は当主・北条氏政とともに切腹した。その後関東一帯の新領主となった徳川家康によって八王子城は廃城となった。
現在は、日本100名城などに選定され発掘調査や白の修復が進められている。
【八王子城・場所・アクセス】
〒193-0826 東京都八王子市元八王子町3
【八王子城地図】
コメント
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他の人の紀行文と比較して、写真が全く異なるが、これらの写真は本当に八王子城趾なのか?正しいのなら、地図とルートを示して欲しい。