【城名】
勝瑞城
【勝瑞城の説明】
勝瑞城は徳島県板野郡藍住町勝瑞にあった平城である。鎌倉時代から戦国時代にかけて阿波国の政治の中心として栄え、中世の城郭として代表的な城であった。
築城時期については諸説あるが、承久の乱の後、阿波守護になった「小笠原長清」が守護館を設けたのが始まりという説が有力である。その後、室町時代になると細川氏が守護として君臨し大きな勢力を築いた。
応仁の乱に終止符が打たれ、戦国時代へ突入すると阿波守護の「細川政元」は実子がいなかったため3人の養子を迎えた。この3人の養子が政元の跡目を巡って大きな争いが勃発した。最終的には「細川晴元」が寵臣「三好元長」と共に京都を占拠し、晴元は足利幕府の管領におさまった。
晴元を支え管領に据えた元長だったが、主君である晴元により殺害されてしまう。元長の力が畿内一帯に及ぼす影響が大きくなったためと言われている。元長の後を継いだ「三好長慶」は実父「元長」を殺害した晴元を京都から追放し、ここに畿内全域を治めるほどの実権を手にした。
一方阿波国では、天文21年(1552年)「勝瑞城」に「細川持隆」が城主としておさまり、その重臣として「三好長慶」の弟「三好実休」が実権を握っていた。しかし、同年8月、三好実休は謀反をおこし「細川持隆」を自害させ「勝瑞城」を奪い、これにより阿波守護の細川氏は滅亡した。
永禄5年(1562年)になると「三好実休」は和泉国に出撃し、久米田の戦いで戦死してしまい、三好長治が勝瑞城の城主として跡を継いだ。その頃、畿内では尾張の織田信長が足利義昭を奉じて勢力を伸ばし、畿内の勢力図を一気に変えてしまった。
三好氏が「織田信長」の出現により畿内での勢力を失いつつあるとき、勝瑞城でも三好長治の力が衰えてきた。天正4年(1576年)には「細川真之」が勝瑞城を出奔して自立を図ると、天正5年(1577年)、長治は細川真之を奉じる「一宮成助」らの軍勢に勝瑞城を追われ、同年3月に自害して果てた。
天正10年(1582年)、土佐を統一した「長宗我部元親」は阿波国の混乱に乗じて阿波侵攻を開始し、中富川の戦いで長治の弟「十河存保」を破り讃岐へと敗走させ「勝瑞城」を手中に収めた。この勝利のあと元親は「勝瑞城」を廃城とした。
阿波の中心「勝瑞城」は城下町が整備され、細川氏9代、三好氏3代の本拠地として大いに栄えた。現在の城跡には水濠で囲まれた本丸跡に三好氏の菩提寺「見性寺」が残り、井戸や土塁などの遺構が残されている。
【勝瑞城・場所・アクセス】
〒771-1273 徳島県板野郡藍住町勝瑞
【勝瑞城地図】
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