【城名】
一宮城(上総)
【一宮城の説明】
一宮城は千葉県長狭郡一宮の台地上に築かれた平山城である。
築城時期は南北朝時代にまでさかのぼるが詳細は不明とのこと。
戦国時代には里見氏に属していた正木氏が治めており、勝浦城や大多喜城などを含め勢力を誇っていた。永禄6年(1563年)、北条氏・千葉氏と里見氏・太田氏の連合軍との間で勃発した第二次国府台合戦で里見氏は大敗北を喫する。
この戦のあと、里見家の重臣である正木一族は分裂して北条氏に内通した大多喜城主「正木時忠」は、里見氏方の「正木憲時」が治める「一宮城」を攻略して嫡男の「正木時通」を城主とした。
この時点で正木氏は大多喜城・勝浦城・一宮城を領し、里見氏から自立した形となった。その後、北条氏政が武田信玄との間で駿河の攻防戦に戦力を集中すると北条氏の支援を得られなくなった正木氏は再度里見氏に帰属している。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による北条征伐が開始されると「里見義康」は秀吉に好を通じる一方で、三浦半島へ侵攻したり独自の行動を取ったことで秀吉の機嫌を損ね下総の一部と上総国を没収され安房一国4万石の本領のみの支配を許された。
秀吉はすでに「私戦禁止令」を全国に通知しており、これに背いたということが領地没収の理由にあげられている。(諸説ある)これにより下総・上総の国人衆は混乱に陥り、徳川家康の命を受けた「本多忠勝」を大将とした軍に次々と城を落とされていった。
一宮城も落城した城の一つで、この時廃城になったとされている。現在の城跡には往時をしのぶ遺構はほとんど残されていない。なお、文政9年(1826年)八田藩主「加納久儔」が江戸湾警備のため飛領であった一宮に藩庁移転を決定し、その際に土塁のみが残っていた一宮城の跡地に陣屋を設置して周辺を整備した。
以後、明治時代に入るまで一宮藩の藩庁として機能したが「廃藩置県」によって再度廃城となった。
【一宮城・場所・アクセス】
〒299-4301 千葉県長生郡一宮町一宮3435
【一宮城地図】
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