宇和島城:藤堂高虎が築城し家康から伊達秀宗が配領 その後明治を迎える名城 宇和島城【お城特集 日本の歴史】

宇和島城:藤堂高虎が築城し伊達秀宗が配領 その後明治を迎える名城 宇和島城【お城特集 日本の歴史】

【城名】
宇和島城

【城の説明】
宇和島城は、四国の愛媛県宇和島市丸之内にあった城で国の史跡に指定されている。中世期にあった板島丸串城の跡に「藤堂高虎」が築いた近世城郭である。宇和島城の歴史はとても古く、嘉禎2年(1236年)西園寺公経が宇和島地方を勢力下に置き砦程度の城を築き、当時は丸串城と呼ばれていた。

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天正3年(1575年)には西園寺宣久の居城となりこの地域を支配するようになる。しかし、天正13年(1585年)豊臣秀吉が「四国討伐」を行い、伊予国は小早川隆景の所領となり隆景の家臣「持田右京」が城代となる。天正15年(1587年)には小早川隆景が筑前国へ転封となり、代わって大洲城に戸田勝隆が入城し、宇和島城は一族の戸田与左衛門が城代となった。

宇和島城/アクセス・場所・地図 藤堂高虎が築城し家康から伊達秀宗が配領 その後明治を迎える名城 宇和島城【お城特集 日本の歴史】

文禄4年(1595年)文禄の役の功績により「藤堂高虎」が宇和郡7万石を与えられ入城し城の大改修を行う。慶長6年(1601年)に現在の姿の城が完成し正式に宇和島城と名付けられる。標高74メートルの丘陵の山頂にある本丸を中心に二ノ丸、その北に藤兵衛丸、西側に代右衛門丸、藤兵衛丸の北に長門丸を中腹に配置している。

宇和島城/アクセス・場所・地図 藤堂高虎が築城し家康から伊達秀宗が配領 その後明治を迎える名城 宇和島城【お城特集 日本の歴史】

麓の北東に三ノ丸、内堀で隔てて侍屋敷が置かれた外郭を廻らせる梯郭式の平山城であった。東側に海水を引き込んだ水堀、西側半分が海に接しているので「海城(水城)」とも呼ばれている。縄張そのものは築城の名手といわれた藤堂高虎の創建した当時の形が活用されたと見られているが、現在見られる天守などは伊達氏による建築物である。

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高虎は想像力溢れる頭脳により様々な工夫を築城に用いた。当時の築城術で多くのからくりを用いた城は他にはなかった。さらに宇和島城には本丸天守から、原生林の中を抜ける間道が数本あり、隠し水軍の基地などに通じていた。宇和島城は間道、隠し水軍などの優れた高虎の築城術の秘法が、見事に生かされた城だった。

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しかし、城の完成時には高虎は領地を加増されており今治城へ城を移し、宇和島城には城代を配置した。関ヶ原の戦いが終わり、大阪の豊臣家の抑えとして高虎は家康から伊賀上野へ移封となり、慶長13年(1608年) 富田信高が伊勢国より入城する。慶長18年(1613年) 信高が改易となり宇和郡は徳川幕府直轄となる。藤堂高虎はその代官となり藤堂良勝を宇和島城代とした。

慶長19年(1614年) 伊達政宗の長男(庶子で嫡男ではない)伊達秀宗が大阪の陣の後、10万石で入封しそのまま伊達家が支配し江戸期を経て明治時代を迎えている。

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現在は堀も海も埋め立てられている。明治以降は、大半の建物が撤去されたが天守、大手門などは残され、現在は、天守(国の重要文化財)と上り立ち門(市指定文化財)の石垣が現存する。






【宇和島城・場所・アクセス】
〒798-0060 愛媛県宇和島市丸之内1

【宇和島城地図】



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