【城名】
臼井城
【臼井城の説明】
臼井城は千葉県佐倉市臼井田付近にあった平城である。
永久2年(1114年)、平常兼の子の平常康が臼井に居を築き「臼井六郎」を称したとされており、その後、臼井氏の中興の祖といわれる「臼井興胤」の代に城としての基礎が築かれたと伝えられている。
戦国時代になると古河公方「足利政氏」の次男「足利義明」が「小弓城」を征圧し「小弓公方」を称した。臼井城の「臼井景胤」は小弓公方側によしみを通じて主家である「千葉勝胤」とは立場を逆にした。
足利義明は関東を制圧し、鎌倉まで進出して鎌倉公方になること目論むが、相模と武蔵の大部分を統一した北条氏が東上するにあたり、次第に衝突するようになる。
天文7年(1538年)10月、里見義堯・真里谷信応・臼井景胤らの軍勢1万を従えて国府台城に入った「足利義明」は、北条氏綱・氏康親子や氏綱の弟「長綱」など2万の軍を率いて江戸城に入った北条軍を迎え撃った。(国府台合戦)
義明軍はこの戦に敗北し足利義明自身も討死する。里見氏や真里谷氏、そして臼井景胤も領国へと撤退した。その後景胤は再び千葉氏に属することになる。(主家の千葉氏は北条氏寄りの立場を取っている)
永禄4年(1561年)、臼井久胤が城主の時に「上杉謙信」の小田原攻めに呼応した里見氏の家臣「正木信茂(上総大多喜城主)」に攻められ臼井城は落城。久胤は結城城の「結城晴朝」を頼って脱出し臼井氏は滅亡した。
その後、臼井城には久胤の母方の祖父「原胤貞」が城主におさまった。永禄9年(1566年)、北条方の臼井城は「上杉謙信」と「里見義弘」に攻められ原胤貞らは落城寸前にまで追い込まれたが見事に撃退している。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉が「小田原征伐」の軍を起こすと豊臣方の「徳川家康」から攻撃を受けて臼井城は落城し、原氏は滅亡する。秀吉から北条氏の旧領を賜った家康は重臣「酒井家次」を臼井城に3万石にて配置する。
その後、慶長9年(1604年)酒井家次は上野国「高崎城」に加増転封となり、臼井城は廃城となった。現在の臼井城跡は市街化が進みその遺構は空堀や土塁などが残るのみである。
【臼井城・場所・アクセス】
〒285-0861 千葉県佐倉市臼井田900
【臼井城地図】
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