【城名】
伊賀上野城
【城の説明】
伊賀上野城は、三重県伊賀市上野丸之内にあった平山城である。西の丸の丘陵には伊賀国守護の仁木氏の館(伊賀の守護所)があった。上野盆地のほぼ中央にある上野台地の北部にある標高184メートルほどの丘に建てられた平山城であり、北には服部川と柘植川、南には久米川、西側には木津川の本流が流れ、城と城下町を取り巻く要害の地にある。
戦国時代の伊賀国はどこの大名にも属さない豪族が乱立した独立国であった。天正7年(1579年)9月、伊勢国の織田信雄が兵8千を率いて伊賀平定に乗り出したが、伊賀衆の前に惨敗し信長より叱責を受ける。天正9年(1581年)9月には信長の援軍をうけ兵4万で伊賀の国平定に成功する。
そして、織田信雄の家臣である「滝川雄利」を伊賀国の守護とした。本能寺の変の後「豊臣政権」となると、天正12年(1584年)10月「脇坂安治」が伊賀国守護となったが、天正13年(1585年)5月には摂津国に移封された。
その後、大和郡山から「筒井定次」が移封となり「天正伊賀の乱」で焼け落ちた平楽寺・仁木古館跡に上野城を築城することにした。城代屋敷の北東隅に筒井時代の天守があったと考えられている。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いが起こると「筒井定次」は東軍の徳川家康方につき、会津征伐に参戦した。そして、上野城には筒井玄蕃を留守居役としたが、西軍の摂津国高槻城主「新庄直頼・直定」父子に攻撃され、筒井玄蕃は戦わず城を明け渡し高野山に逃亡した。筒井定次は徳川家康の許しを得て直ちに軍を引き返し、城を再度奪い返し事なきを得た。
関ヶ原の戦いの戦後「新庄直頼」は改易され、筒井定次は本領安堵の上、伊賀上野を支配した。しかし、徳川家康は大坂城の豊臣家を包囲する必要に迫られ、重要な地点である伊賀上野城を強固にすべく、筒井定次を様々な失策の多いことを理由に、慶長13年(1608年)6月に領地を没収し、磐城平城鳥居忠政のもとに預けた。
その後、慶長16年(1611年)徳川家康の命により「藤堂高虎」が伊予宇和島より入封し、上野城を拡張したが大坂の陣にて豊臣氏が滅んだため築城は中止され、本丸・二ノ丸などの主要部分は未完成のまま江戸時代を過ごした。藤堂高虎は大坂の役が終わった後、交通の便利が良い伊勢国の津城を本城とし、伊賀上野城を支城とした。
一国一城令で伊賀上野城は伊賀国の城として存続が認められると、弟の藤堂高清を城代とし、藤堂高清の死後は藤堂元則が城代となり、文政8年(1825年)藤堂高猷が最後の城主となるまで世襲した。現在、本丸跡にある3層3階の天守は昭和初期の模擬天守であり、城を含めた近隣一帯は上野公園として整備され、国の史跡に指定されている。
【伊賀上野城・場所・アクセス】
〒518-0873 三重県伊賀市上野丸之内106
【伊賀上野城・地図】
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