【城名】
下妻城(多賀谷城)
【下妻城(多賀谷城)の説明】
下妻城は茨城県下妻市にあった平城で多賀谷氏の居城であったことから多賀谷城とも呼ばれている。
康正元年(1455年)、「多賀谷氏家」が下妻荘に城を築いたのが下妻城(多賀谷城)の始まりとされている。
その後、古河公方「足利成氏」の命により「結城成朝」の家臣として領国支配を強めて行った。その後、代々この地を治めながら城下町を形成し、勢力を伸ばしていく中「多賀谷家重・朝経」の代になると主家の結城氏よりも大きな勢力を持つようになる。
そして、結城氏から脱却し独立大名の道を歩もうとする。結城氏当主の「結城政朝」はこれを喜ばず、ついに多賀谷氏と結城氏は敵対関係に陥る。結城氏は山川氏と友好を深め、多賀谷氏は土浦城の小田氏とよしみを通じて互いに争った。
戦国時代に突入すると常陸・下総国は「上杉謙信」「武田信玄」「北条氏康」の強大な3家を含めて混乱期に入った。多賀谷氏は初め北条氏康に従い、その後上杉謙信に従ったりしてこの難局をやり過ごした。
永禄4年(1561年)には、上杉謙信・佐竹義重とよしみを通じ「結城晴朝」を攻め結城領の一部を領した。この頃が多賀谷氏の最盛期で、重経の代には領地を20万石にまで拡大する。
天正18年(1590年)の小田原征伐では「豊臣秀吉」の軍に参戦して領土を安堵されたが、文禄の役では病気と称し参戦しなかったため、領地の大半を没収され下妻6万石となった。
慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」においては、隣国佐竹氏との関係が強かったため、佐竹氏と行動を共にし、家康の出陣要請にも応じず多賀谷氏は改易されたと伝わっている。その後、佐竹義宣の家臣となり佐竹氏の移封に伴い久保田へ移った。
多賀谷氏が改易になると下妻の地は天領と大名支配を繰り返し、最終的には正徳2年(1712年)に「井上正長」が1万石で城主となり、以降、幕末まで井上氏が14代にわたりこの地を治めた。
【下妻城(多賀谷城)・場所・アクセス】
〒304-0064 茨城県下妻市本城町2-50
【下妻城(多賀谷城)地図】
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