【城名】
三田城
【三田城の説明】
三田城は兵庫県三田市屋敷町の天神の付近にあった平城である。
南北朝時代に赤松氏が有馬郡を攻略し、東野上城を赤松氏範が築城したと言われている。
その後、赤松一族の有馬氏が有馬郡を統治し、「有馬義祐」が東野上城の山城から山麓の三田城へ拠点を移したとされている。戦国時代に入ると、三田城主「有馬国秀」は織田信長の家臣で摂津守護の「荒木村重」の支配下に入る。
しかし、天正3年(1575年)にあらぬ疑いがかかり自刃して果ててしまう。有馬氏の嫡流はここで絶えてしまい、その後は荒木氏の一族「荒木平太夫」が城主となる。
天正6年(1578年)荒木村重が織田信長に反旗を翻すと有岡城は落城し、三田城も織田家の家臣団によって落とされた。以降、池田氏、三好信吉が三田城の城主となる、天正10年(1582年)近江から「山崎片家」が2万2千石で入封し、片家が死去するとその息子「山崎家盛」が城主となり三田城を修築した。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが勃発すると「山崎家盛」は石田三成の西軍に与したことで転封となり、次いで淡河城を拠点としていた有馬氏庶流の「有馬重則」が2万石にて入城する。
旧領を回復した有馬氏だったが、元和6年(1620年)久留米藩に21万石に加増の上、転封となりここに有馬氏の三田支配は終わりを告げる。寛永3年(1626年)には出羽国上山城から「松平重直」が新たに入封するも、そのわずか6年後の寛永10年(1633年)、豊後国の龍王城へ転封となる。
次に三田城主となったのが九鬼水軍で有名な九鬼氏で志摩国「鳥羽城」から3万6千石にて入封し、そのまま260年あまりを九鬼氏が城主を治め明治維新を迎えている。三田城の遺構としては堀、礎石建物、井戸、石垣などが残されている。
【三田城・場所・アクセス】
〒669-1532 兵庫県三田市屋敷町1-20
【三田城地図】
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