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【城名】
会津若松城
【城の説明】
福島県会津若松市にある鶴ヶ城は現在も多くの観光客で賑わう由緒ある城である。室町時代から「蘆名氏」が代々この地を治めていたが、戦国時代末期に米沢から領地拡大を続けていた「伊達政宗」によって攻略されてしまう。この時期の鶴ヶ城は「黒川城」と呼ばれていた。
その後、日本の中央では「豊臣秀吉」の天下統一が進みその影響は奥羽地方にも波及してきていた。秀吉は天下覇者の名のもとに「私戦禁止令」を全国に布告していたが、九州の島津氏や四国の長宗我部氏などはこれに従わなかった。政宗もこの布告を無視した形で奥羽統一を進めていき、ついに最大のライバル会津の蘆名氏を破りこの地を勢力下におくことに成功する。
一方、天下の形勢が日本の北端奥羽地方にまで波及してきたのは秀吉による九州統一、四国統一が完了し、いよいよ関東の名門「北条攻め」が開始されてからのことによる。政宗も北条攻めが行われるぎりぎりまで自身の去就を迷っていたが、最終的には北条攻めに加わり秀吉に臣下の礼をとった。
しかし、秀吉は完全には政宗を信用はしておらず、政宗自身が切り取った会津の地を没収し本拠地を岩出山城に移すことにする。その政宗を監視・監督する役目として会津の地には元「松坂城主」であり織田信長の娘婿でもある名将「蒲生氏郷」が赴任してきた。
会津の地はこの氏郷により若松と呼ばれるようになったと言われている。しかし、氏郷は不運にも若くして病死してしまい蒲生家の後継ぎはまだ若い蒲生秀行が継ぐことになる。二代藩主「秀行」はまだ幼少だったこともあり家中を治めることができず、お家騒動も勃発したことにより下野国宇都宮へ移封となる。
この次に会津に入封してきたのが越後の名族であり、上杉謙信の跡を継いだ五大老の一人「上杉景勝」である。上杉氏は東北最大の石高で政宗の抑えとして配属された。そのような中、慶長5年(1600年)歴史上最も有名な「関ヶ原の戦い」が勃発する。上杉景勝が徳川家康の独占横暴に対抗した形でこの戦がおこり、戦は日本全国を二分する形の大規模な合戦となった。
この戦により上杉景勝や石田三成などの西軍は徳川家康方に敗れてしまい、上杉家も恭順する形となる。そして会津120万石から米沢30万石へと減封され、上杉家臣団は米沢へ向かい退転する。このあと再び蒲生家が会津の領主として返り咲くが秀行の後を継いだ忠郷が死去した際、継嗣がいなかったため減封の上、伊予松山への転封とされてしまう。
この後、会津の地を治めたのは秀吉子飼いの生き残り大名「加藤嘉明」である。加藤家は40万石で会津の地に入封した。しかし、嘉明亡き後の加藤家ではお家騒動が絶えずついに転封が決まり、徳川二代将軍秀忠の庶子「保科正之」が会津23万石で入封し、その後幕末期までの長い時代を保科家(その後松平性に改名)が治めることになる。
幕末時には各地で新政府軍と旧幕府軍との間で戦が起こり、これを「戊辰戦争」と呼ぶ。鳥羽伏見の戦い、甲州勝沼の戦い、上野彰義隊の戦い、旧幕府脱走軍による宇都宮の戦い、長岡の戦いを経てついに戦場は会津城下にまで迫ってきた。会津藩は各地へ正規軍を派遣しており城にはわずかな老兵と若い兵しか残っていなかった。
急襲を受けた会津藩は圧倒的な軍事力を誇る新政府軍に各地で押されまくり、ついに籠城戦へと戦は移っていった。会津藩はよく善戦したが全国から集まった新政府軍に幾重にも囲まれ、もはやこれまでと開城・降伏するすることになる。なお、この戦の中もっとも悲劇的な出来ごとと言われ、後世にまで名を残した「白虎隊」の逸話が残っている。16歳~18歳からなる若い藩士達は燃え盛る城下町の火災を見て城が落ちたと勘違いし、見事に自刃したのであった。
今も会津城下に近い「飯盛山」には白虎隊士の墓が建てられ多くの人々が訪れている。一方会津若松城は戊辰戦争で激しい攻撃を受けたため、明治初頭に取り壊されたが昭和期に入り「復元天守」として再建された。現在、会津若松城は「日本100名城12番」に選定されている。
鶴ヶ城 会津若松城(1/460)日本の名城プラモデル
【会津若松城・場所・アクセス】
〒965-0873 福島県会津若松市追手町1−1
【会津若松城地図】
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