【城名】
唐沢山城
【唐沢山城の説明】
唐沢山城は栃木県佐野市富士町と栃本町にまたがる山城である。
治承4年(1180年)奥州藤原家9代俊綱の弟「成俊」がこの地にもともとあった城跡を改修し、初めて佐野氏を名乗ったとされている。成俊は30年あまりもの歳月をかけて城を完成させた。
戦国時代の佐野氏は相模の北条氏、越後の上杉氏の二大勢力に挟まれ多くの困難に直面した。永禄2年(1559年)佐野昌綱は、北条氏政の大軍に城を包囲されるがすぐさま上杉謙信が援軍にかけつけてこれを撃退した。
昌綱は次男である「虎松丸」を上杉謙信のもとへ養子として差し出したが、嫡男「宗綱」と「虎松丸」との間で争いが起き、天正4年(1576年)虎松丸に加勢した「上杉謙信」は1万5千の軍勢にて唐沢山城を包囲したが落城には至らなかった。
その後も謙信による佐野氏への攻撃が繰り返されるが一族である結城氏・小山氏・皆川氏などの加勢により、辛くも上杉軍を撃退している。天正15年(1587年)、佐野氏は上杉謙信との手切れにより「北条氏康」の五男「氏忠」を養子に迎え家の安泰を図った。
しかし、天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐が勃発すると、当主の「佐野氏忠(北条氏忠)」は小田原城へ籠城した。この戦で北条氏が破れると北条氏の当主であり兄でもある「氏直」とともに高野山へこもった。
一方、「佐野宗綱」の弟「佐野房綱」は北条氏より氏忠を養子に迎える際、佐野家を出奔し「豊臣秀吉」に仕えていた。このことから、北条征伐後は正式に佐野家を継ぐことを許された。文禄2年(1593年)、房綱は佐野氏の安泰を図るため、秀吉の家臣「富田一白」の二男「信種」を養子に迎え、秀吉の偏諱を賜り「佐野信吉」と名乗らせた。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは信吉は徳川家康に味方し3万5千石の旧領を安堵され佐野藩が成立した。慶長7年(1602年)には、唐沢山の麓に「佐野城」を築き本城を移した。これにより平安時代より続いた「唐沢山城」は廃城になった。
現在の唐沢山城跡には石垣、大手枡形、土塁、堀切、井戸などの遺構が残っており、国の史跡にも指定された。
【唐沢山城・場所・アクセス】
〒327-0801 栃木県佐野市富士町
【唐沢山城地図】
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