【城名】
寒河江城
【寒河江城の説明】
寒河江城は山形県寒河江市にあった平城である。
この地域に館を建てたのは「大江広元」の嫡男「大江親広」だったと伝えられている。親広は承久3年(1221年)の「承久の乱」において「後鳥羽上皇」に味方し、この戦に敗れると寒河江荘に隠棲したようである。
その後、鎌倉幕府により一連の乱に関わった豪族・土豪への勘気が解かれると寒河江城の基礎を築き、初代寒河江氏を名乗ったとされている。室町時代にかけて城は拡張され、二ノ丸、三ノ丸が築造され三重の堀を備えた連郭式平城へと変貌した。
戦国時代に入ると城下町の形成にも力を入れさらに城は拡充された。永禄3年(1560年)、最上義守・義光親子に攻撃されるが見事に撃退している。しかし、たび重なる最上氏の攻撃と近隣の天童氏などからも攻められ、ついに本丸を残すのみにまで追い込まれた。
天正12年(1584年)、寒河江氏は「最上義光」によってついに滅ぼされた。一時期は義光の直轄地となっていたがその後嫡男「義康」が入城する。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに乗じた「出羽合戦」では上杉景勝の重臣「直江兼続」により攻め落とされている。
関ヶ原の戦いで石田三成率いる西軍が敗北すると、西軍に属していた上杉軍は続々と撤退を開始し、寒河江城は再び最上氏のものとなる。慶長7年(1602年)には義康の弟「最上家親」が城主となるが、家親が山形城へ移ると「寒河江肥前」が2万7千石にて入城した。
慶長19年(1614年)、最上義光が病死すると「寒河江肥前」はこれに殉死し、寒河江城は再び最上氏直轄領となる。その後最上氏はお家騒動により改易となり鳥居氏が入城すると寒河江城は本丸を残し破却された。
現在は城の大部分が住宅地や小学校となっており、石碑と堀跡が残るのみである。また、三ノ丸にあった辰巳門が澄江寺の山門として移築されている。
【寒河江城・場所・アクセス】
〒991-0023 山形県寒河江市丸内1-3-11
【寒河江城地図】
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