【城名】
岩櫃城
【岩櫃城の説明】
岩櫃城は群馬県吾妻郡東吾妻町にあった山城である。
築城者や築城時期ははっきりしないが鎌倉時代に「吾妻太郎助亮」により築城されたと言われている。
南北朝時代に入ると南朝方の攻撃により当主「吾妻行盛」が戦死し、その子「千王丸」は斎藤梢基の元へ退去し山内上杉氏の偏諱をもらい受け「斎藤憲行」と名乗った。
再び岩櫃城を奪い返した憲行はこの地の支配権を確立し、戦国時代に入るまで斎藤氏が治め続けた。ときの城主「斎藤憲広」は上杉氏に属しながら勢力を拡大していたが、郡内の豪族「羽尾氏」と「鎌原氏」の領地争いに介入すると羽尾氏方についた。
一方、鎌原氏は武田氏家臣の真田氏と結びつき、これにより武田信玄がこの争いに介入することになる。そして、信玄からこの地方の攻略を命じられている真田幸隆は吾妻郡の羽尾氏方の城々を攻略し始めた。永禄6年(1563年)には「斎藤憲広」の岩櫃城も家臣の内応により落城しここに齊藤氏の勢力は駆逐された。
以降、真田氏が沼田城を攻略するまで吾妻郡の拠点となり、沼田城が真田氏の居城になると岩櫃城はその支城となった。天正10年(1582年)、織田信長による「甲州征伐」が開始されると新府城を退去した武田勝頼に対して、真田昌幸は岩櫃城へ来るよう勧めるが勝頼は拒否し、小山田信茂の岩殿城へと向かった。
豊臣秀吉が天下を統治すると真田家は秀吉麾下の大名として存続した。世の中が徳川の時代になっても真田家では昌幸の嫡男「信幸」が真田家を存続させ松代藩を立藩した。
なお、現在の岩櫃城跡には土塁や堀切、出丸の跡などが残されている。
【岩櫃城・場所・アクセス】
〒377-0801 群馬県吾妻郡東吾妻町原町4392
【岩櫃城地図】
コメント
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堅固な城はわかりますけど、険しすぎて登れまへん・・汗