川越城:扇谷上杉氏・山内上杉氏・古河公方足利晴氏と北条氏康が争い河越野戦で知られる川越城 【お城特集 日本の歴史】

川越城(河越城)/アクセス・場所・地図 扇谷上杉氏・山内上杉氏・古河公方足利晴氏と北条氏康が争い河越野戦で知られる川越城 【お城特集 日本の歴史】

【城名】
川越城(河越城)

【川越城(河越城)の説明】
川越城は埼玉県川越市にあった平城で関東7名城・日本100名城にも選ばれた城である。
なお、中世では「河越城」と明記され、近世では「川越城」と明記されている。

室町時代の武蔵国は上杉氏や足利古河公方など各大名が入り乱れた抗争地域だった。そんな中、扇谷上杉氏の当主「上杉持朝」は家宰の大田道灌に上杉氏の本拠となるべく川越城の築城を命じた。

川越城(河越城)/アクセス・場所・地図 扇谷上杉氏・山内上杉氏・古河公方足利晴氏と北条氏康が争い河越野戦で知られる川越城 【お城特集 日本の歴史】

同時に江戸城の築城も命じ、河越城には上杉持朝が入り、江戸城には大田道灌が入城した。明応6年(1497年)山内上杉氏当主の「上杉顕定」は河越城の扇谷上杉氏に対抗すべく古河公方「足利政氏」を取りこみ対峙した。

大永4年(1524年)になると相模を統一した「北条氏綱」が嫡男氏康と武蔵国へ侵攻してきた。そして激しい攻防戦の末、江戸城を奪取し河越城の攻略にも成功、ついに武蔵国統一を達成する。

これに対抗するため扇谷上杉(上杉朝定)・山内上杉氏(上杉憲政)・古河公方足利氏(足利晴氏)は禍根を忘れ北条氏に攻撃を仕掛けた。河越城に籠城した「北条綱成」は主君氏康が来援するまで良く持ちこたえ氏康が指揮する野戦奇襲攻撃により連合軍は壊滅することになる。(河越野戦)

川越城(河越城)/アクセス・場所・地図 扇谷上杉氏・山内上杉氏・古河公方足利晴氏と北条氏康が争い河越野戦で知られる川越城 【お城特集 日本の歴史】

この一戦により「上杉朝定」は討ち死に、上杉憲政は武蔵・上野の支配を徐々に弱め越後の「長尾景虎(上杉謙信)」の元で庇護され、そして古河公方足利晴氏は北条氏に屈した。以後、河越城には氏康の重臣「大道寺政繁」が城主として任命された。政繁は城の改修を大々的に行い、城下町の整備も行った。

天正18年(1590年)豊臣秀吉が北条征伐の軍を起こすと河越城を守っていた「大道寺政繁」は上野国まで出張って豊臣軍を迎え撃つがこれに敗れて降伏している。河越城には前田利家が入城した。

北条氏が滅亡すると関東の地は「徳川家康」に与えられ河越城には「酒井重忠」が1万石をもって入封した。そしてこの時、川越藩が誕生する。川越藩の城主は江戸期を通じて目まぐるしく変わり、酒井家・酒井家・堀田家・大河内松平家・柳沢家・秋元家・越前松平家・松井松平家と移り変わった。

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承応2年(1653年)松平信綱により川越城は大々的な拡張工事を行い、近代城郭へと変貌した。また、嘉永元年(1848年) 越前松平家の「松平斉典」により本丸御殿の造営が行われた。幕末時の藩主松井松平家「松平康英」は新政府軍に恭順し城下町の消失を免れた。

現在の川越城跡は初雁公園として整備されており日本100名城の一つにも選ばれている。






【川越城(河越城)・場所・アクセス】
〒350-0053 埼玉県川越市郭町2-25-10

【川越城(河越城)地図】



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