【城名】
箕輪城
【箕輪城の説明】
箕輪城は群馬県高崎市箕郷町にあった平山城であり、日本100名城の一つに指定されている。
築城時期は永正9年(1512年)、戦国時代中期に「長野業尚」によって築かれたと伝えられている。
長野氏は代々この地を治め地盤を固めていった。上野国には関東管領の山内上杉家「上杉憲政」がいたが北条氏康の攻撃を受けて越後の上杉謙信のもとへ逃げ込んだ。
関東管領がいなくなった上野国だが長野氏の当主「長野業正」は名君の呼び声高く、上杉謙信の力添えもあり、武田信玄の執拗な攻撃を何度となく跳ね返した。
永禄4年(1561年)、業正が没するとその子「業盛」が跡を継いだ。その後も信玄の執拗な攻撃にさらされ続け、永禄9年(1566年)、ついに箕輪城は落城し業盛は切腹して果てた。箕輪城は上野国支配の重要な拠点として信玄子飼いの「甘利昌忠」「真田幸隆」が城代に任命された。
元亀元年(1570年)には「内藤昌豊」が城代となり、天正3年(1575年)に勃発した「長篠の戦い」で昌豊が討ち死にすると、その子「内藤昌月」が城代を引き継いだ。
天正10年(1582年)、天目山の戦いで武田勝頼・信勝親子が自害すると上野一国は織田信長の重臣「滝川一益」が配領し、関東の北条攻めを開始した。しかし、同年織田信長が家臣の「明智光秀」によって本能寺にて討たれると関東は動乱の地と化した。
北条氏政はこの機会に上野国を支配しようと総力を挙げて攻め込み、一益を尾張の本拠地「長島城」へ退去させた。箕輪城の内藤豊月はそのまま北条氏に従った。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐が開始されると箕輪城は「前田利家」「上杉景勝」らの攻撃を受けて開城した。北条氏が降伏・開城すると関東は徳川家康に与えられ、箕輪城には12万石をもって「井伊直政」が入城した。直政は箕輪城を近代城郭に改造したが、慶長3年(1598年)高崎城への移封が決まると箕輪城は廃城となりその役目を終えた。
【箕輪城・場所・アクセス】
〒370-3105 群馬県高崎市箕郷町東明屋
【箕輪城地図】
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