【城名】
桑名城
【桑名城の説明】
桑名城は三重県桑名市にあった城で桑名藩の藩庁である。
永正10年(1513年)に「伊藤武左衛門」が城を築いたのが桑名城の始まりと伝えられている。
天正2年(1574年)織田信長が伊勢・志摩の制圧を「滝川一益」に命じ、北伊勢攻略に成功した恩賞としてこの地を与えた。その後、豊臣秀吉の時代に入ると「神戸信孝」「天野景俊」「服部一正」「一柳直盛」「氏家貞和」「松平家乗」と城主が目まぐるしく変わる。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いに勝利した「徳川家康」は徳川四天王の一人と言われた「本多忠勝」を上総「大多喜城」から桑名藩10万石として移封させた。
忠勝は桑名の地に本格的な城下町として整備し、城も近代城郭へと改修した。 元和3年(1617年)、2代忠政の時に播磨「姫路藩」へ移封となり、代わって「松平定勝」が城主となる。宝永7年(1710年)には「松平忠雅」が城主となり7代続いた後、代わって松平定永が桑名藩主となる。
この松平家が幕末まで城主を務め「戊辰戦争」を迎えることになる。なお、幕末時の当主「松平定敬」は「京都所司代」を命じられ、兄で会津藩主の「松平容保」と共に京都の治安維持に努めた。
幕末最後の将軍「徳川慶喜」が大政奉還を表明し、幕府の権威を朝廷へ返上したがあくまで討幕を模索していた薩摩藩・長州藩との間で「鳥羽・伏見の戦い」が勃発する。この戦いに敗れた旧幕府軍は江戸へ撤退を開始し、その後京都で「新政府」を樹立した「薩長土肥」を中心とした征討軍が東征を開始する。
京都からほど近い桑名藩ではあくまで徹底抗戦する交戦派と時代の流れに逆らわない恭順派にわかれ、最後は恭順派の主張が通り桑名藩は開城・降伏した。
藩主である「松平定敬」は兄の会津藩主「松平容保」と共に江戸へ退避し新政府軍との戦いを繰り広げる。この時、あくまで徹底抗戦を主張していた多くの桑名藩士が定敬に従った。
定敬と桑名藩士は関東の戦いや会津戦争を経て、蝦夷の函館まで交戦を続けたが蝦夷共和国(旧幕府軍による函館政権)が新政府軍に降伏するとこれに従った。桑名城は少しずつ復旧や復元を行い、本丸・二の丸一帯を整備し「九華公園」として現在に至っている。
【桑名城・場所・アクセス】
〒511-0032 三重県桑名市吉之丸5-1
【桑名城地図】
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