【城名】
坂本城
【坂本城の説明】
坂本城は滋賀県大津市下坂本にあった琵琶湖畔の城である。
元亀2年(1571年)9月、比叡山焼き討ちを行った織田信長は、宇佐山城の城主であった明智光秀に対して滋賀郡を与え坂本城を築城させた。
これにより光秀は滋賀郡のうち5万石を与えられて坂本城城主となる。坂本城主となった光秀はこの城を拠点に南近江の土豪や豪族を次々と降しその支配力を強めた。
一方浅井長政・久政親子を自刃追い込み小谷城を落城させた信長は北近江半国を羽柴秀吉に与え坂本城の対岸「今浜」の地に城を築かせた。秀吉は信長の許しを得て、今浜の地名を「長浜」へと改め長浜城主となる。
光秀はその後、丹波攻めを命じられ「亀山城」を拠点とし「波多野秀治」の守る「八上城」や「赤井直義」の黒井城を攻める。長い年月をかけて八上城を降伏・開城に導き、黒井城を攻め落とし、ついに丹波攻略が完了する。
その後、丹後の攻略も命じられ「細川藤孝」と攻略して丹後平定を成功させている。丹波一国を光秀に、丹後一国が藤孝に与えられた。これにより光秀は坂本城5万石と合わせて34万石領する大名となる。
天正10年(1582年)6月2日、光秀は羽柴秀吉の援軍を命じられるが中国攻めには向かわず本能寺の織田信長を急襲し、主君である信長を討ち取った。これを知った羽柴秀吉はいち早く毛利家と和睦を結び、中国大返しを慣行。そして、山崎の戦いで光秀の軍を破った。
光秀の甥「明智秀満」は坂本城に火を放ち自刃して果てた。戦に勝利した秀吉は丹羽長秀に伽藍に帰した坂本城の再建を命じ、城主に任命した。後に「杉原家次」そして「浅野長政」が城主となった。
しかし天正14年(1586年)、秀吉の命を受けた浅野長政が「大津城」を築城し居城を移したことにより坂本城は廃城となり、その役目を終えた。光秀が築城してから実に、15年目のことであった。
現在は「坂本城址公園」として整備されている。
【坂本城・場所・アクセス】
〒520-0105 滋賀県大津市下阪本
【坂本城地図】
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