【城名】
筒井城
【筒井城の説明】
筒井城は奈良県大和郡山市筒井町にあった城で、筒井家は興福寺の僧兵を束ねる地位にあった。
筒井家は順慶の父、「筒井順昭」の時に勢力を拡大し大和一国をほぼ統一した。
しかし、順昭は若くして病死し嫡男の順慶がわずか2歳にして筒井家の後を継ぐことになる。この頃、阿波・讃岐及び近畿に勢力を誇っていた三好長慶の重臣「松永久秀」が大和の国へ侵攻し筒井城は落城する。
順慶は家臣の城へ落ち伸び、しばらくの間身を隠して過ごした。その後、松永久秀は三好三人衆と袂をわかち、反対に順慶は三好三人衆と盟約を結び連携して久秀を攻める。守勢から勢いを盛り返した筒井軍はついに筒井城奪還に成功する。
永禄11年(1568年)、ちょうど順慶が筒井城を奪還した頃、尾張・美濃を制圧した織田信長が足利義昭を奉じて上洛作戦を敢行する。情勢を見るに敏感な松永久秀はいち早く織田信長に臣従し、大和切り取りのお墨付きをもらうことに成功する。
織田家の後ろ盾を得た久秀は再び大和国統一に向けて攻勢にでて、筒井城を攻め再び順慶は城を捨てて家臣の城へ退去している。久秀は「多門山城」や「信貴山城」を拠点にしばらく大和の国を統治していたが次第に織田信長との関係が悪化していく。
※多門山城
※信貴山城
甲斐の武田信玄が上洛戦を敢行した際に久秀は信長に反旗を翻したが信玄は途中、病にて逝去した。久秀は多門山城を差し出すことで信長の許しを得た。この間、順慶もじっとしてたわけではなく着々と筒井城の奪還を目論みついに筒井城の奪還に再び成功する。ここで順慶も初めて織田信長に臣従することを決め、信長からそれを許されている。
これによりしばらくは大和の国に平穏が続いた。天正5年(1577年)、上杉謙信が上洛の軍を興すと久秀は信長に対して再度謀反を起こし、順慶は先鋒となって信貴山城を攻めて落城に陥れた。
ここに大和の国は筒井順慶が支配する国となる。順慶は防御には向かない筒井城とは別に、大和支配の中心として大和郡山城の築城を信長に進言しその許可を得るが、信長から大和の国は本城以外の城は廃城とする旨通達があり、ここに筒井城は廃城となる。
【筒井城・場所・アクセス】
〒639-1123 奈良県大和郡山市筒井町
【筒井城地図】
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