【城名】
福島城
【福島城の説明】
福島城は現在の福島県福島市杉妻にあった平城で現在の県庁所在地がその場所である。
もともとは杉目城や杉妻城と呼ばれており、伊達晴宗が政宗の父「輝宗」に家督を譲る際、自身の隠居城としてこの城に入った。
豊臣秀吉が関東の北条氏政・氏照を降しほぼ天下を手中に治めると、次は奥州仕置きに入った。この時、政宗の領地だった会津(黒川)や福島(杉目)、米沢といった地は没収され政宗には別の領地が与えられた。
この時、会津には蒲生氏郷が入り、杉目城は秀吉の腹心の木村吉清に与えられ城名を福島に改名した。やがて秀吉が逝去し、石田三成と徳川家康お間で「関ヶ原の戦い」が勃発すると西軍に属していた「上杉景勝」を東軍に属する伊達政宗が攻め、福島の地も戦場となった。(松川の戦い)
結局、徳川家康の東軍が勝ち上杉景勝は米沢30万石へと減封されてしまい、福島城付近は天領となる。1679年(延宝7年)に「本多忠国」が福島藩15万石を与えられ、堀田氏、板倉氏へと城主が変わる。
明治維新のときには板倉氏が3万石で福島城を治めており、奥羽越列藩同盟に参加して薩摩・長州を中心とした西軍と戦ったが、1868年(慶応4年)7月29日に二本松城が落城すると、藩主・板倉勝己は米沢藩へ逃亡した。
なお、白河城攻防戦が始まる前の慶応4年4月20日、長州藩の奇兵隊書記・第二奇兵隊軍監を務め、戊辰戦争では奥羽鎮撫総督府参謀となり、会津藩の武力征討を主張した「世良修蔵」が福島城下で仙台藩士らに殺害される事件が発生した。
1868年(慶応4年)9月2日、福島藩は二本松城へ常駐していた西軍に降伏し、城は西軍に引き渡された。そして1869年(明治2年)板倉勝己は三河国へ転封され福島藩は消滅した。
現在福島城の遺構はあまり残っていないが福島県庁を中心に石垣跡や城跡の石碑などが残っている。
【福島城・場所・アクセス】
〒960-8065 福島県福島市杉妻町2-16
【福島城地図】
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