久留米城:毛利秀包・田中忠政が改易となり有馬豊氏が21万石にて入封した久留米城【お城特集 日本の歴史】

久留米城:毛利秀包・田中忠政が改易となり有馬豊氏が21万石にて入封した久留米城【お城特集 日本の歴史】

【城名】
久留米城

【久留米城の説明】
久留米城は福岡県久留米市篠山町にあった平丘城である。

戦国時代前期には篠原城という砦ほどの城があり、筑前・筑後の大友宗麟と肥前の竜造寺隆信が互いに争っていた。やがて豊臣秀吉の九州平定が行われるとこの地には九州攻めで功績のあった毛利元就の9男「毛利秀包」が久留米城7万石を配領する。

久留米城:毛利秀包・田中忠政が改易となり有馬豊氏が21万石にて入封した久留米城【お城特集 日本の歴史】

日ごろから秀包に目をかけてくれていた豊臣秀吉が逝去し、徳川家康と石田三成との間で「関ヶ原の戦い」が起こると西軍に与し、敗戦が決まると領地を没収された。その後、駿河の一部を領していた「田中吉政」が32万5千石で柳川城を与えられると久留米城は柳川城お支城となる。やがて田中吉政の死去し忠政が跡を継ぐが忠政が亡くなると嗣子がいなかったため田中家は改易されてしまう。

久留米城:毛利秀包・田中忠政が改易となり有馬豊氏が21万石にて入封した久留米城【お城特集 日本の歴史】

かわって元和7年(1621年)、丹波国福知山城主の「有馬豊氏」が21万石で久留米城主に封じられ、柳川城主には立花宗茂が11万5千石にて大名へと返り咲いた。(宗茂は関ヶ原の戦いで西軍に与した罪で柳川城を没収されていた。)

有馬豊氏はもともと長崎県大村付近を治めていた大村氏ではなく、摂津国(現:有馬温泉付近)の大名である。その後、久留米城は久留米藩庁が置かれ明治維新が起こるまで有馬氏が治める城となる。

久留米城:毛利秀包・田中忠政が改易となり有馬豊氏が21万石にて入封した久留米城【お城特集 日本の歴史】

【久留米城・場所・アクセス】
〒830-0021 福岡県久留米市篠山町444






【久留米城地図】



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