岡城:瀧廉太郎「荒城の月」で有名な九州の天空の城 岡城 【お城特集 日本の歴史】

岡城のアクセス・所在地・マップ 瀧廉太郎「荒城の月」で有名な九州の天空の城 岡城 【お城特集 日本の歴史】

【城名】
岡城

【城の説明】
岡城は豊後国直入郡竹田(大分県竹田市大字竹田)にあった山城である。別名「豊後竹田城(ぶんごたけたじょう)」とも呼ばれる。岡城の築かれた天神山は標高が325メートルあり、典型的な山城である。

この城は、元々あった「木牟礼城」を南北朝時代の建武元年(1334年)に後醍醐天皇の支持を受けた大友氏一族の「志賀貞朝」が拡張し、岡城と名付けられたとされている。

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天正14年(1586年)、九州統一を目指す薩摩の島津氏が豊後府内に迫る快進撃を見せていた中、岡城のみは「志賀親次」の指揮のもと再三にわたり島津軍を撃退した。親次はその功績から「豊臣秀吉」より天正15年正月3日付けの褒状を受けている。

文禄2年(1593年)、文禄の役で大友吉統が豊臣秀吉から鳳山撤退を責められ所領を没収されると、大友氏重臣の親次も岡城を退去することになった。翌文禄3年(1594年)播磨国三木城から中川秀成が移封され、3年がかりで大規模な修築を施した。

志賀氏時代の城域の西側天神山に、本丸・二の丸・三の丸御殿・櫓を造営して城の西側を拡張し、そこに重臣屋敷群を設けた。本丸には御三階櫓を設け、城門は志賀氏時代の大手口であった下原門に加えて近戸門を開き、大手門を東向きの下原門から現在見られる西向きの位置に改めた。また、城下町は志賀氏時代の挟田に加えて西方に竹田町が整備された。

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中川家2代目久盛の代には清水門が整備され、3代久清の時に西側の重臣団屋敷を接収して西の丸を築き御殿を造営している。岡城は岩盤の台地上に築かれたため、台風や地震・火事などの被害を多く受け、特に明和8年(1771年)8代当主「中川久貞」の時代には本丸、西ノ丸、御廟など城の大半を焼く火事が起きている。

明治維新後、廃城令によって廃城とされた。そして明治4年(1871年)から翌年にかけて城内の建造物は全て破却され、現在残っているのは高く積み上げられた石垣のみである。昭和11年(1936年)12月16日、「岡城址」として国の史跡に指定され、平成18年(2006年)には日本100名城(95番)に選定された。

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一方この地は「荒城の月」作曲者の「瀧廉太郎」が幼少期を過ごした地であり、岡城で曲のイメージを得たといわれている。そのため城址には廉太郎の銅像が建てられている。城の周辺は整備され毎年4月に「岡城桜まつり」が開催され大名行列が再現されている。岡城址は保存状態が良く、多くの見学者が訪れる観光地となっている。






【岡城・場所・アクセス】
〒878-0013 大分県竹田市竹田

【岡城地図】



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