【城名】
上原城
【城の説明】
上原城は、信濃国諏訪郡(現:長野県茅野市ちの上原)にあった諏訪氏の山城である。(長野県指定史跡)諏訪氏は上原城の近くに支城として桑原城も築いていた。
また、諏訪氏は代々諏訪神社上社大祝(おおほうり)を司った家柄でもある。この頃は、このように武士と神官の双方を持ち合わせた家が珍しくない時代であった。
※ちなみに、奈良の筒井家は元々は興福寺を自衛する僧兵であり、僧侶と武士とを持ちわせた戦国大名であった。
さて、諏訪家は代々諏訪神社最高の神職をつとめていたため、極めて気位が高かった。
戦国時代に入ると当主の諏訪頼重は、甲斐の武田信虎と同盟関係を築いていたが、武田家が晴信(信玄)の時代になると同盟関係は崩れ互いに争うようになる。
天文11年になると、晴信は高遠城主の「高遠頼継」と共同で諏訪頼重を責め立て降伏させる。その後、頼重は甲斐の国へ幽閉され自刃させられている。
一方、高遠頼継もその後信玄に滅ぼされている。この頃から信玄は自由自在に謀略を用いて信濃の城々を落としていったのである。信玄は諏訪の統治に上原城を使わず、諏訪湖湖畔の高島の地に城を築き、そこに諏訪の郡代を配置した。
諏訪氏は信玄に滅ぼされたが、信玄の4男「勝頼」が諏訪家の跡を継ぐことになる。そして、長男義信が親子関係の悪化(義信は駿河侵攻に反対していた)から自刃に追いやられると「勝頼」は武田家の跡取りとして道を歩むことになる。
天正10年(1582年)になると、織田家の侵攻により武田家は滅亡するが、その後間もなく、信長は家臣である明智光秀に討たれてしまう。
※この織田家の甲斐侵攻時に「上原城」は廃城となっている。
その間、諏訪頼重の従兄弟に当たる「諏訪頼忠」は、すでに織田家に寝返っていた「木曾義昌」の支援を受けて高島城を奪還している。
木曾氏の勢力が弱まると頼忠は自立し、小なりとも小大名となる。頼忠は諏訪氏を再興し、頼忠の息子「諏訪頼水」が慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでの功によって高島藩に封じられた。高島藩はこのまま諏訪氏が代々城主として明治維新を迎えている。
※写真は諏訪氏が代々利用していた上原城跡(石碑)
場所:長野県茅野市ちの上原
【上原城・場所・アクセス】
〒390-0873 長野県茅野市ちの上原
【上原城地図】
コメント
この記事へのトラックバックはありません。
この記事へのコメントはありません。