【城名】
高槻城
【城の説明】
高山右近(たかやま うこん)は、戦国時代の武将から大名にまでなった人物であり、キリシタン大名としてもその名を知られている。
洗礼名は「ジュスト」という名でポルトガル語では「正義の人」を意味する。右近は茶道も極めており、号を南坊と称し千利休の「利休七哲」の一人としても知られる。
高山氏は摂津国三島郡高山庄(大阪府豊能郡豊能町高山)出身の国人で、右近は天文21年(1552年)に父・友照の嫡男として生まれた。この頃、高山氏の所領がある摂津においては池田氏・伊丹氏などが独自の勢力を強めつつあった。
永禄11年(1568年)に織田信長が圧倒的な軍事力により京へ上洛し、足利義昭を第15代将軍の座に据える。摂津の国には足利義昭の直臣である「和田惟政」を高槻城に配し、伊丹親興・池田勝正を加えた3人を摂津の3守護に任命した。
そして、高山父子は高槻城主の「和田惟政」に仕えることとなった。しかし、元亀2年(1571年)和田惟政が池田氏の重臣「荒木村重」と「中川清秀」の軍に敗れて討死し、その後まもなくして、その「荒木村重」が今度は主君の池田氏そのものを滅ぼしてしまう。
村重は織田信長に接近して「摂津国の切り取り勝手」の承諾を得ると、信長に敵対する三好氏に再び接近した伊丹氏を滅ぼす。一方、惟政の死後「高槻城」はその子・惟長が城主となったが、まだ17歳だったため叔父の「和田惟増」が惟長を補佐していた。
しかし、どういうわけか惟長はこの叔父を殺害してしまい、さらに高山親子を快く思わない他の重臣達の進言により高山親子をも討とうとしていた。高山家ではこのことを「荒木村重」に相談し、力添えを得る確約をもらった。
元亀4年(1573年)3月、ついに惟長は反高山派の家臣と共に、高山父子を呼び出しこれを討とうと画策。しかし、高山親子はそれを知りながら家臣と共に惟長のもとへ向かい、待ち受けていた反高山派の一団と切りあいの末、どうにか惟長を高槻城から追いやることに成功する。
摂津の国はすでに荒木村重が織田信長より「切り取り勝手」の承諾を得ていたので、高山親子はそのまま高槻城主に収まり荒木村重の配下となる。高山親子はまもなく高槻城の修築工事を行い、石垣や塗り壁などを当時流行していた様式改めた。
その後、父「高山友照」が50歳となった頃高槻城主を右近に譲り、右近は高山家の当主となったのである。
【高槻城・場所・アクセス】
〒569-0075 大阪府高槻市城内町
【高槻城地図】
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