鳥取城:戦国時代には山名豊国が羽柴秀吉の籠城攻めにて落城 鳥取城【お城特集 日本の歴史】

【城名】
鳥取城

【城の説明】
鳥取城は現在の鳥取県鳥取市にあった山城跡である。天正8年(1580年)織田家中国地方司令官の「羽柴秀吉」からの攻撃を受けて4ヶ月間の籠城の末落城した城としても有名である。元々は山陰地方を中心に大勢力をはっていた山名氏だったが、戦国時代になると「山名豊国」が鳥取城の周辺をわずかに治めるまでに衰退していた。

このような時、中国平定を命じられた羽柴秀吉(与力尼子党)からの攻撃を受け、豊国はすぐに帰順する。しかし、中国地方の覇者「毛利輝元」が鳥取攻めを開始すると今度はあっさりと毛利家に降る。このような状況を見て山名家家臣団は再び鳥取攻めを画策している羽柴軍が攻め寄せる前に城主「豊国」を追放。

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毛利家へ使いを出して変わりの城主を派遣するよう要請し、吉川一門の「吉川経家」が新たに城主として就任した。天正9年(1581年)4月、ついに羽柴軍が鳥取城下に攻め寄せ吉川勢は籠城する。秀吉は三木城同様に鳥取城を完全包囲して長期の籠城戦の構えを示した。これが世に名高い「鳥取の渇え殺し」である。

籠城戦は4ヶ月間にも及び、ついに「吉川経家」は自身の命と引き換えに降伏・開城を決断する。その後は、羽柴秀吉の家臣「宮部継潤」が城代として入城し山陰地方の拠点とした。しかし、天正10年に織田信長が家臣の明智光秀により討たれると(本能寺の変)豊臣秀吉がその仇を討ち、名実ともに天下人となる。

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鳥取城は秀吉の九州攻めで功績のあった「宮部継潤」が正式に5万石を与えられて城主となる。慶長5年(1600年)徳川家康と石田三成との間に「関ヶ原の戦い」が勃発すると宮部家は三成率いる西軍に属し、東軍の「亀井茲矩」「赤松広秀」らによって攻められ開城する。

関ヶ原の戦いが一日で東軍の勝利となり、家康による論功行賞の結果「池田長吉」が鳥取城6万石に入封し、この時本格的な近世城郭へと改修された。元和3年(1617年)には「池田光政」が因幡・伯耆32万5千石を拝領するとさらに鳥取城は大改修を行い、城下町も整備された。

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その後、岡山藩池田家と領地交換などが行われたが、引き続き池田家がこの地を治めて明治維新を迎えている。現在は天守台、復元城門、石垣、堀、井戸等を残し日本100名城63番に選定されている。

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【鳥取城・場所・場所】
鳥取県鳥取市東町

【鳥取城地図】





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