【城名】
和歌山城
【城の説明】
和歌山城は徳川一門御三家の居城だった城である。徳川家康が天下を統一した際、徳川家の子孫(将軍家)を絶やさないように作られた藩(紀州藩)である。御三家は紀州藩の他に尾張(尾州藩)、常陸水戸藩がある。その御三家からも継嗣が見つからない場合に備えて、その後「御三卿」という家が三家できた。
一橋家・清水家・田安家の三家である。この三家は徳川家一門としてそれぞれ江戸城の屋敷のある場所(門)によって命名された。(一橋門・清水門・田安門)和歌山城の辺りは戦国時代には「鉄砲集団」で有名な雑賀党(鈴木家・土橋家・太田家)が治めていた。しかし、天正13年(1585年)豊臣秀吉が紀州攻めにて雑賀一党を降すと、弟の豊臣秀長に紀ノ川と和歌川に挟まれた小山に城を築かせた。これが和歌山城の原型である。
その後、豊臣秀長が大和郡山へ転封になると「桑山重晴」が3万石で入封する。桑山氏が大和新庄への転封が決まるとその後には「浅野幸長」が紀州一国の太守として入封する。しかし、徳川家康が天下をとった後に広島城を拝領していた福島正則が改易になると、浅野家は広島への転封を命ぜられる。そして、和歌山城には徳川家康の十男「頼宣」が55万5千石で入封し御三家の一角を担うことになる。
和歌山城の普請や改修は浅野家の時代に始まり、その後「徳川頼宣」が大々的に城の拡張や改修、城下町の整備を行い近代城郭へと変貌させた。天守は江戸時代に消失してしまい、当時の武家諸法度により天守再建は許されなかった。明治期に入ると全国の城への廃城令が布告され和歌山城も破却された。
現在の天守は再建された復興天守である。その他、大手門と一之橋、それに御橋廊下まども復元されている。本丸と二の丸は和歌山城公園として整備されており、和歌山城は日本100名城62番にも選定されている。
【和歌山城・場所・アクセス】
〒640-8146 和歌山県和歌山市1-3
【和歌山城地図】
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