■ 日本の歴史ブログ
戦国時代に卑賤の身から機内一帯を治める大大名にまで上り詰めた戦国武将がいた。それが「松永久秀」だ。久秀は当初「三好長慶」の祐筆や秘書のような役割をはたしていたが徐々にその才覚を認められて、ついに長慶の筆頭家老ともいうべき地位に上り詰めた。
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この頃の長慶は最も信頼していた久秀の助言を最優先に聞くまでに籠絡されてしまった。親族筆頭ともいうべき弟2人を久秀の讒言により殺害し、自らの手で自身の勢力を削いでいくことになった。
長慶が病気で死んだ時など、久秀による毒殺という噂が流れるほどであった。その後、久秀は三好一族(三好三人衆)と抗争を繰り返しながら機内での勢力を維持していた。
しかし、美濃を摂取した「織田信長」の台頭により自身の地位が揺らいできた。信長は京都をあっという間に制圧するとそのままの勢いで機内一帯をも手中に収めた。三好三人衆は阿波国(四国)へ退散したが久秀は信長の軍門に降った。
信長も機内で勢力を維持している久秀の力量を買ってこれを許し、その支配下においたのだった。そんな久秀だが当然心から信長に心服しているはずはなく、隙さえあれば再び機内での権力掌握の機会を狙っていた。
その機会が訪れたのは武田信玄による西進開始だった。甲斐を出立した信玄はそのまま南下して三河を席捲、徳川家康は信玄の軍を抑えきれず一敗地に塗れた。そのまま西進を続けた信玄だったが途中で容体が急変し、帰らぬ人となった。
この機に乗じて機内で軍をあげていた久秀は秘蔵の茶器を信長に献上することと「多門山城」を摂取されることでその罪を許された。信長からすればまだ使い道があると判断されたのであろう。
2回目の離反は越後の上杉謙信が西進した時だった。謙信は越中、能登と軍を進めて京都へ迫る勢いを見せたが国元の越後に異変が起きたことで急遽軍を引き返した。これによりまたもや久秀の目論みは外れてしまう。
さすがに2度目の離反では罪を許されるとは思っていなかったのだろうか。久秀は信貴山城に籠って籠城戦の支度をした。信長は何度か使者を送って降ることを進めたが久秀は断固拒否。これは信長が一旦は許しても、その後改めて処分するという事例を何度も目にしてきたからであろう。
これにより久秀は信貴山城とともに滅びたのであった。なお、久秀の最後は体に爆薬を結び、秘蔵の茶器(平蜘蛛)とともに爆死したと伝わる。信長が浅井・朝倉両氏を滅ぼしたあとにその骸骨を酒の器にして配下の武将にふるまったことがあるため、自身がそうならないようにとの配慮による爆死であった。
このようにして信長に2度離反した松永久秀は波乱に富んだ生涯を閉じたのであった。
【信貴山城・場所・アクセス】
〒636-0923 奈良県生駒郡平群町信貴山1308
【信貴山城地図】
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